三浦の散歩道 〈第89回〉 みうら観光ボランティアガイド協会
「三浦道寸の墓」と言われる供養塔について、三浦市の説明板に、次のように書かれています。
「新井城主三浦道寸義同は鎌倉以来坂東武門の名族である三浦一族最後の当主となりました。三浦一族は始祖為通にはじまり鎌倉時代には北条氏とともに幕府を二分して覇権を争ったことはよく知られています。(中略)永正九年(一五一二年)北条早雲は岡崎城(平塚市伊勢原市両市にまたぐ)から住吉城(逗子市)などにつづいて三浦氏の新井城(油壷)に攻めました。そして日本籠城史でもまれな凄惨な攻防は三年にわたり、永正十三年七月十一日義同以下城兵ことごとく決戦にのぞみ、ここに、さしもの三浦氏はその歴史を閉じました。」とあり、義同(よしあつ)辞世の歌が記されています。
この説明板の少し坂上の木陰になった所に、道寸の子息「三浦荒次郎義意」の墓と称される供養塔があり、「大龍院殿玄心公大禅定門墓」とあり、裏面に「当寺開基三浦前陸奥守道寸公嫡子、弾正小弼(しょうひつ)荒次郎義意公廟所、地頭松平縫殿助地所寄附、天明二壬寅(みずのえとら)稔、七月十一日、網代山海蔵寺智玉叟代造立と記されています。道寸供養塔と同じ時に造立されたようです。道寸公の塔は永昌寺、義意のは海蔵寺と、それぞれ寺の開基によるのでしょう。いずれも、当時の代官「松平縫殿助」の名前が登場しています。
明治三十年(1897)一月に「読売新聞」に掲載された小説家川上眉山(びざん)の『ふところ日記』の中に、次のような文章があります。「(前略)手に一升を提げて荒井の城址を尋ねつつ行く。(中略)ここに荒次郎の墓あり。大龍院殿云々といふ。嗚呼半世の勇士。其名は八州に震ひ、其力は万夫に当たりけるが、径は荊棘に乱れて松籟ただ昔の夢を咲く裏淋しき塚の主や。いにし永正十三年なりけむ、油壷の波を紅にしける御身が末路も亦悲しかりき。」と書いています。
しばし、往昔に心を通わせて、京急バスの停留所をぬけて、市の駐車場の入口に至りました。県道沿いを四、五歩行ったところに脇道があり、「関東ふれあいの道」の標式と、「油壷、入江のみち」とあって、緑色の矢印に「油壷湾を経て諸磯湾へ」と記されています。道は急な坂道を下って、人家を過ぎると、左側の急斜面は竹藪になっています。右手は海に面した平地で右の西側は急峻な崖になっている谷戸地です。そこに、洒落(しゃれ)た家が建っています。門扉のところに「グリーンハウス」と英語で書かれていて、パーティーなどに貸し出す旨のことも書かれています。その先きに「油壷公園」と記された広場があり、そこに、写真にあるような『海の安全を祈って、初島、利島ヨットレース遭難の碑』があります。昭和三十七年(1962)十一月に起こった遭難事故にまつわる碑なのです。くわしくは次回に…。 (つづく)
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