三浦の散歩道 〈第106回〉 みうら観光ボランティアガイド協会
「若宮神社」は、当時伊勢新九郎と称していた北条早雲と三浦道寸との合戦の際に焼失してしまいましたが、寛文十二(1672)年に再建されました。『若宮神社誌』の中で、『初声村誌』を引用して次のように記しています。
「(前文略)後、寛文十二年(一六七二)再建ス。宮田郷分劃(ぶんかく)シテ上宮田、下宮田ノ二村トナル。故ニ下宮田ノミノ鎮守トス。然レドモ上宮田村鹿穴、山ヶ谷里八分離ヒズ。」とあり、このことは明治維新まで続いたとあります。現在でも鹿穴の人々が祭礼の提灯を掲げに来ています。
その後、貞享三(1686)年に再度、本殿が修復されています。さらに、元禄十六(一七〇三)年十一月二十三日に起こった房総半島の野島崎沖を震源地とする地震で、三浦半島や房総半島の沿岸では最大五・五メートルも隆起した所があったと言われています。この下宮田の港も隆起して干潟が生じたと言われています。そのことについて、明治四十四年に編集されたという『初声村誌』の中で次のように記されていると言われています。
「初声小学校附近ハ海底ニシテ製塩業ヲ営ミシ家今猶(なほ)存シテ塩屋ト称セリ、然ルニ今ヲ去元文三年前。百七十四年、此ノ田ヲ山田儀左衛門氏アリテ之ヲ開拓シ耕田トセリト云フ、爾来(じらい)防波堤ヲ築キ水門ヲ設ケテ海水ノ侵入ヲ防グ」とあります。
また、「初声市民センター」の入口に在る「入江新田と矢作」と題された表示板に、「昔からこの附近は低地で、入江が深く宮田湊矢作湊と呼ばれるところで耕作がむずかしい湿地でした。」とあって、宝永五(1708)年十一月、和田村・赤羽根村・竹の下村、下宮田村の各名主や年寄達が協議して、太田和村(横須賀市武山)の山田惣左衛門、六郎右衛門等による改良工事が行われたもので、三十年の後、元文三(1738)
年に完成して入江新田という村を成したものです。(中略)工事としては、長さ二百二十間(けん)(四〇〇メートル)高さ九尺(二・七メートル)の堤をつくり、汐入をとめて耕地とし、その面積実に十五町歩(約一五ヘクタール)以上に達したといいます。」と書かれています。
その後、寛政七(1795)年に神社拝殿が再建されています。
ところが、この時代は寺院が神社を支配していたので、それを「別当(べっとう)」と称していたのですが、拝殿再建をめぐって、二つの寺が支配の主導権争いをしたとの記録も残されています。
その後、一八〇〇年代に入って、享和元(1801)年七月に若宮神社の境内で江戸相撲年寄の錦嶋三太夫の追善相撲が興行されたと言われています。(つづく)
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