三浦の散歩道 〈第107回〉 みうら観光ボランティアガイド協会
江戸相撲の年寄初代錦嶌三太夫の供養塔が上宮田から引橋に至る百三十四号線の半次交差点脇に建てられています。師匠であり親方であった三太夫が亡くなって十年余り、門弟衆が供養塔を建てたいと希望。人の往来が多い処ならば、多くの人に回向(えこう)をしてもらえる場所として選ばれ、世話人を通して村方へ願い出たと言われています。
この供養塔は安山岩で作られ、碑高は90センチ、幅は32・5センチの角柱形で、18センチの台座の上に立っています。塔の正面に「錦嶌三太夫墓」とあり、台座の正面には、北浦賀道、西鎌倉道、南三崎道と刻字されています。向かって右の面には、村の名主等地元の人名が、左面には願主の名と寛政五年丑(1793)四月九日の日付けと三浦郡、鎌倉藤沢 相撲門弟中とあって、さらに三浦半島の相撲関係者など二十数名の名前が刻まれています。
祭礼の節に掲げる幟(のぼり)について、神田・黒崎地区が掲げる幟に「力士」の絵柄があったように記憶しています。
二人の力士が土俵の中で素手で、相手を土俵の外に出すか、又は、倒すことによって勝敗を争うことが、「すもう」です。漢字で「相撲」と記す由縁でしょう。おもしろいことに、「相撲」は「取る」と言います。辞書の項目に「手、足、体などを動かす。」とあって、「相撲やカルタなどをする。」とあります。相撲の実況放送を聞いていると「合わせる行司は……」との言葉も耳にします。これは「揃える」ことなのでしょう。これは二人の力士が「手を取り合う」力くらべの意なのです。『古事記』には「出雲の国ゆずり」の交渉で、建(たけ)御名方(みなかた)神が建(たけ)御雷(みかづち)神に「まず御手を取りましょう。」と手を差しのべましたが、握った手が氷や剣に変わったために、降参し、諏訪へ退いたと言われています。よく知られているのは、『日本書紀』にある、野見宿禰(すくね)と当麻蹶速(たいまけはや)の天覧相撲のことです。勝者は宿禰で、東京の両国に日本相撲協会が管理する「宿禰神社」があるそうです。
太平洋戦争頃までは三浦半島の寺社では奉納相撲などの名称で「相撲大会」が祭礼の時などに行われていたようです。特に「三浦の三大相撲」として名高いのは、大津の諏訪神社、葉山の森戸神社、そして宮田の若宮神社の三箇所です。現在まで存続して、大会が開催されているのは若宮神社だけになってしまいました。
お宮の相撲場で、「わんぱく相撲三浦場所」と名付けた大会が今月の8日に開かれています。あとは、九月の祭礼時に開かれる大会が楽しみです。
現在、活躍中の横綱白鵬関も幕下の頃、宮城野部屋の一員として、神社の土俵で指導に来られたことを懐かしく思い出されます。
(つづく)
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