三浦の散歩道 〈第112回〉 みうら観光ボランティアガイド協会
「初声中学校」の下の道を進むと、「出荷場」と、その奥には「元屋敷会館」があります。その前の道をさらに進み、やがて道は二つに別れます。その右側の真っすぐな道を行くと、右側にカーブしながら登り坂に入ります。やがて、左へ曲がりながら歩を進めます。登りきった辺りの左側に畑が見えます。その別れ道の右手に、小さな石碑のようなものが見えます。近寄ってみますと、正面に「宮田貞明主従墓域」と刻字されていて、右側面には「元屋敷公園」の文字が見えます。
『三浦古尋録』(文化九年刊)に「元屋敷是ハ宮田ノ太郎ノ舘跡ト云宮田ノ太郎ハ佐原時連ノ子孫ナリ」とあります。
さらに、少し進むと、人家の裏に石の祠や五輪塔の一部を思わせる石塊などが見られる手前、草に被(おお)われたかたちで、「宮田貞明館址碑」があります。貝の化石の台座に、高さ一・五メートル程の碑で、脇に「男爵 三浦英太郎筆」とあります。裏側に「宮田貞明館址碑陰銘」とあって、次のように記されています。全文漢字なので、ここでは小生なりの読みで記してみます。 「宮田貞明太郎ト称ス。三浦義明八代之孫ナリ。宮田郷ヲ家人岩上六郎、池代入道等ト領ス。耕織ヲ奨(すす)メ、士民ノ教化ニ務メ、之ヲ徳ス。館址ニ素(もと)、手栽(うえ)ノ松有り、往年ハ風ノ為(ため)ニ僵(倒)る所、頃(ころ)ハ其(そ)ノ地ニ就(つ)いて胥(みな)謀(はか)り、花樹ヲ植エ祠ヲ立テ之ヲ祭ル。且(か)ツ、追遠ヲ石表ニ刻ミテ意(こころ)ヲ云フ、銘(めい)シテ曰(いは)ク、玆(ここ)ニ郷公ノ居 里仁ノ俗(なら)イハ厚ク 遺愛ハ甘棠(かんとう)ニ比フ 後(の)チ凋(しぼ)ミテ彼ノ阜(おか)ニ在リ 樹ハ枯レ人ハ逝(ゆ)クモ 芳名ハ永ク朽(くち)ず。
大正十年二月 南相 鈴木正繹撰」とあります。
「玆郷公之居」以下は五言詩の如くに書かれています。
『三浦大介及三浦党』の初声村の項に「貞明手栽の松は十数年前(大正十年より前)に枯れた。」とあります。
宮田太郎の人物について浜田勘太氏は『初声の歴史探訪記』の中で、「宮田の領主であって、その屋敷が今の元屋敷の地であり、(中略)あの有名な湊川(みなとがわ)の戦いで、楠正成を攻めた頃、尊氏の騎下にあった三浦貞連の子が、宮田太郎であるという。従って建武の頃の人であり、その業績は全く記録にない。」と書いておられる。さらに、同じ書の中で、「宮田貞明館址碑」の文字を筆記した三浦英太郎男爵は、「三浦道寸の子孫で、三浦長門守となり、紀州家に仕え、明治になって、男爵を賜った人である。」と記しています。
ここに「元屋敷」とは南の沓形区に面した側を「岩神(いわがみ)」と呼び、北側の地区を「元屋敷」と言う、二つの地名を持っている区です。
(つづく)
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