三浦の散歩道 〈第113回〉 みうら観光ボランティアガイド協会
「宮田貞明館址碑」を拝して、「小松ヶ池」へと向かう道を少し歩くと、道の左手に一つの谷戸が見られます。その谷戸の右側は人があまり出入りしないためか、雑草に覆われた藪になっています。その山裾に寺があったというのです。
『新編相模風土記稿』(天保十二(1842)年完成)の中に「浦谷山・龍山寺とあり、普化禅宗で、本尊不動」と記され、開基は道仙で俗名を大井由左衛門と書かれています。「普化禅宗」とは「普化(ふげ)宗」とも呼ばれ、虚無僧(こむそう)として諸国を遍歴して修業した宗派でありますが、明治四年に廃宗となっています。その寺がここにあったのではないかと言われています。
道を「岩神」地区へと向かい、「小松ヶ池」の上方の道を「京急線」へ至る手前、「安楽寺」に至る狭(せま)い道の脇に四基の「庚申塔」があります。そのうちの笠付きの「庚申塔」の上部に雲の上に乗った桃の実が彫られています。専門家の言では「桃の霊力は除災除魔に霊験あるものとして、神聖視され、農家では増産、福守の神として各地に信仰されている。」としています。狭い道ですが、かつては多くの人が通った道でもあったのでしょう。
京急線を跨(また)ぐ陸橋を越えて、「内込」の方へと歩を進めます。国道に至るまでは広い畑地です。往古、「妙音寺」(現在は下宮田一一九番地に所在)が、この辺りに在(あ)ったと言われています。『新編相模風土記稿』に「古の寺地は妙音寺原と称す。」とあります。
その原の西方、「向畑」と呼ばれる所に「山王さま」と呼ばれる塚があり、そこに十二基の「庚申塔」が正面の二基を囲むような形で在ります。特に、正面左側の「板碑型」は風化がひどく、判読はむずかしいのですが、鈴木喜代司氏の著『初声村の庚申塔』によると、明暦四(1658)年のもので、「光明真言?」の種子付きであると記されています。写真でご覧の如く、現在、「妙音寺」さまの「護符」が貼ってありました。
この辺りから北西の方の眺めは、すばらしいものです。
西方の林の中に入ると、「稲荷社」でしょうか、赤い鳥居と小さな社がありました。今は不能ですが、下へと降りると、「妙音寺」の末寺「円乗寺」が在るはずです。
そこで、「半次」への道をとり、途中、右へ降る石段の道を下って、まっすぐに進みますと、住宅の間にお堂へと登る石段が見えました。「飯森の地蔵様」と呼ばれる「円乗寺」へと至りました。石段は三十三段。その入口の右側に、元禄八(1695)年と明記された「六十六部供養塔」があり、上部に三仏の梵字が刻まれています。左側は明和七(1770)年と記された墓石がありました。残念ながら無住のため、地蔵堂の入口は施錠されていたので、堂の前面で手を合わせて帰参しました。(つづく)
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