三浦の散歩道 〈第121回〉 みうら観光ボランティアガイド協会
京急バス停「和田」から天王坂に向かう所に「和田義盛旧里碑」という二メートル程の石柱が花崗岩製の台座の上にあります。建立は今から九五年前の大正十年ということで、「男爵三浦英太郎書」の文字もあります。
『新編相模風土記稿』に「義盛塚」の項があり、「本和田村の属に殿屋鋪(やしき)と唱ふる所あり、是義盛の宅跡ならんと云」とあります。
『初声の歴史探訪記』(浜田勘太著)の中で、赤星直忠著の『三浦半島城郭史』を次のように引用されています。「今和田の里に『殿屋敷』の名を伝えていない。安楽寺も今はない。(註、仏照山と号す浄土宗天養院末で、和田義盛宅地鬼門の鎮護として建立された所であると言伝えられている。その場所は国道一三四号線沿で大泉寺の右前方に位置する。鬼門とは北東の位置に当たる。)その安楽寺から『殿屋敷』を推定すれば、その西南方に当るわけである。今山裾に社(山王社)があり、その境内に『和田義盛旧里碑』が建っているが、その前面の畑地を『オナカイ』と呼んでいる。」とあります。今では、碑の前方は畑地ではなく、住宅地になっています。
その「旧里碑」の説明が三浦市によって記されています。全文を載せさせて頂きました。「和田義盛の碑」とあって、「鎌倉武士の栄枯盛衰の典型的な例は和田一族であるといわれています。一族を率いた和田義盛は、鎌倉幕府創建の功労者、半島の剛勇三浦大介義明の孫に生まれ、当三浦市初声町和田を領したことから和田氏を名乗り、武勇はことほか勝れ、弓矢にかけてはこの右にでる者がない程でした。頼朝挙兵に参加したとき、義盛は三十四才でしたが、以後大いに活躍、鎌倉幕府の大立物でした。その功によって最高職の侍所の別当(註、別当とは長官のこと)に任ぜられ、頼朝、頼家、実朝の三代にわたって忠誠をつくしたが、退潮する源氏に替って天下をねらう北条氏とことごとに対立するようになり、ついに北条義時の挑発と策謀にのり、いわゆる『建保の乱』を起しましたが、同志と信じていた同族の三浦義村の北条方への寝返りもあって、建保元年(一二一三年)五月四日、鎌倉由比ヶ浜で北条氏のために滅されてしまいました。時に義盛六十七才、この石碑は武将和田義盛の在所」と思われるこの地に、郷土の武人として、悲運の最期を偲び、その武勇をたたえて大正十年三月に建立されました。 三浦市」とあります。
この碑の東側、今は民家があって入れませんが、「義盛産湯の井戸」と称するものもあります。
「旧里碑」のある、この地は「須佐之男命(すさのおのみこと)」を祭神とする「天王社(八雲神社)の境内地にもなっています。
(つづく)
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