三浦の散歩道 〈第124回〉 みうら観光ボランティアガイド協会
現在では「神明白旗神社」と名称付けられていますが、『新編相模風土記稿』(天保十二(1841)年完成)の中では、次のように記されています。
「白籏明神社 惣鎮(そうちん)守なり、和田義盛の霊を祀る、其(その)肖像を神躰とす銅製本地仏は和田党九十三騎の守護仏なり今損壊してわずかに八躯を置、神躰及本地仏とも古は村内安楽寺にあり、後ここに勧請すと云、例祭九月十七日村持下同じ」とあります。
昭和十年に発行された『三浦郡神社由緒記』では、村社の格付けで「神明白旗神社」とあります。祭神、天照大神、和田義盛とし、相殿(あいどの)(同じ社殿に、二柱以上の神を合祀すること。)として、「建御名方(たけみなかた)命」(元村社諏訪神社で、義盛の父杉本太郎義宗が源頼朝から治承四(1180)年八月挙兵の時数度の勲功により三浦郡三崎庄内浦郷田四十貫文を追賞されたので義盛はその報恩記念として建久八(1197)年二月此の地に信濃諏訪明神を勧請したと言い伝えられています。「国常立尊」(日枝神社)寛政九(1797)年二月当村藤助勧請と云う。「市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)」(厳島神社)寛正三(1791)年十月創立と伝えられる「小谷戸」の神ですが、「寛正」という年号がないので「寛政」のまちがいではないかと思います。「素盞鳴(すさのう)尊二柱」(八雲神社)(素戔鳴尊と牛頭天王)貞享四(1687)当村の藤原朝臣大井甚五左衛門勧請と伝えています。「宇迦之魂命(うかのみたまのみこと)二柱」(赤辺稲荷社)天保十三(1842)年の頃角田権左衛門の勧請と「入江新田」の稲荷社で、享保十七(1732)年八月当村山田平兵衛の勧請と、それぞれ、この社に合祀されています。
また、御祭神について次のように書かれています。「御祭神天照大神は我が皇室の宗廟にましまし国民の等しく崇敬する大神である。もと和田字矢作に鎮座にして元禄十四(1701)年大井亀之助、角田権左衛門、角田新右衛門、八兵衛、太郎兵衛の五氏の創建と伝へられ後ち社殿破壊せるにより、大井三郎右衛門、大井磯左衛門の二氏寛保元(1741)年再建して神明社と称して崇敬し来たのである。」と書かれています。
鎌倉幕府侍所別当(長官)和田義盛は北條討伐の兵を挙げ、合戦利あらずして一族鎌倉の由井浜に自刃した。五十一年を経たる弘長三(1263)年和田郷民は旧領主義盛の仁恩に謝せん為め社地に設け社殿を造立して白旗明神と称して崇敬して来たのである。」とも、書かれています。そして、大正七(1918)年九月神明社を此の白旗神社に合祀し、さらに相殿祭神も共に合祀され、総称して、「神明白旗神社」となったのです。
境内の入口は南方に和田の耕地が展望できるところでもあります。(つづく)
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