三浦の散歩道 〈第125回〉 みうら観光ボランティアガイド協会
前回、大正七年九月に神明社を白旗神社に合祀して「神明白旗神社」となった旨を記しましたが、拝殿の扁額を拝見すると、そこには「神明白旗神社」の文字の隣に「明治酉秋日、海軍中将上村彦之丞謹書」と記されています。
調べてみますと、上村中将が横須賀鎮守府の長官をされていたのは明治三十八年から四十二年の間でした。すると、「明治酉年」は、四十二(1909)年にあたります。扁額の年号からすると、合祀は明治四十二年より以前ということになります。『三浦郡神社由緒記』にこだわったばかりに間違いを致しました。お許しを乞う次第です。
神社の入口に「三浦市」の説明板があります。その最後の方に次のように書かれています。「なおここの境内は和田、入江新田、下宮田の田園風景が一望に眺められる景勝地で、」とあります。たしかに、社殿の東側の木々の間から緑を中心とした田園が展望できます。
もう一つ注目すべきは、鳥居の手前にある「庚申塔群」です。中には倒れているものもありますが「十四基」もあります。中でも注目すべきは、宝永三戌天(1706年)九月十七日に建てられたもので、塔の中央上に阿弥陀如来の座像があり、下に三猿が描かれている光背型の庚申塔は珍しいものです。
神社の社殿の横に石段ではなく坂道があります。その道を下って、突きあたりを右へと歩を進めました。「諏訪の上」の手前を左折して「赤羽根」方面へ向かいました。途中、右手の奥の高台「大塚台」に旧兵舎を利用して、「初声中学校」が創立されたと言う話を思い出しながら歩を進めて、浄土宗のお寺「天養院」に至りました。
道路から正面に威厳のある本堂が見えます。山門はありませんが、右手に大きな石碑があり、全面がうすくなって、よくわかりませんが、仏像が描かれています。浜田勘太氏の記すところでは「境内地蔵尊像画」のようです。道に面した左側に「三浦市」の説明板が日本文と英文とで表記されています。その日本文の方を記してみると次のようにあります。
「『相模国風土記稿』に『この寺は和田義盛館鬼門の鎮護として建立する。本尊薬師は行基作』と記されており、和田義盛公ゆかりの寺です。またこの寺の本尊薬師像は義盛公の身代わり薬師といわれていて次のような話が残っています。『和田合戦のおり総身に負傷した義盛が痛さを思わず一同不思議な思いをした。その時この薬師像が顔から胸に傷を負い血潮が流れたという。』これをみて一同薬師の加護を念じ大いに戦ったと伝えられています。
寺に残る和田義盛公の位牌は『筌竜(せんりゅう)院殿前(でんさきの)左衛門尉(にょう)義盛安楽大居士』建暦三年(1213年)のものです。」と書かれています。
(つづく)
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