三浦の散歩道 〈第131回〉 みうら観光ボランティアガイド協会
高円坊の「日枝神社」の前面、畑の縁(へり)に「朝盛塚」及び、草地に囲(かこ)まれた「和田朝盛墓」の石碑があります。朝盛は和田義盛の嫡男常盛の子で、義盛の孫に当たる人物です。
武勇に秀でた和田義盛は幕府内でも大きな存在であったが、政治的な読みは浅く、過去の武勇や忠節を示すことだけという甘さが、北条義時にとって和田氏取潰しを狙う元になったのでしょう。
『吾妻鏡』の建暦三年(1213)二月十五日の項に、「法師一人を生虜(いけど)り相州(北条義時)に進ず。これ叛逆(はんぎゃく)の輩(やから)の中使なり。」とあります。この人物は阿靜坊安念という人物で、その叛逆とは、前将軍の頼家の若君を大将軍にして北条義時を殺害しようとしたことでした。その謀叛に関わったとして、義盛の子息である義直、同じく義重及び義盛の弟である義長の子息胤長が捕えられたのです。その後、義盛は将軍実朝に対面され、子息の二人は罪を赦(ゆる)されたが胤長は陸奥国へと配流されてしまったのです。さらに、御所の東隣にあった胤長の屋地をも北条義時のものになってしまったのです。
それらに怒りを覚えた義盛は同年五月二日、申の刻(午後四時)に将軍の幕下を襲ったのです。
さて、「朝盛塚」の碑文は、現在、苔がいっぱいで全文を解読することがむずかしいので、『初声の歴史探訪記』(浜田勘太著)を用いて読ませていただきます。「朝盛塚碑文」とあって「子爵三浦基次篆額」とあります。そのあとの本文は、「朝盛塚ハ相州三浦郡初声村ニ相伝ト為(なし)、和田朝盛終焉ノ地。按ズルニ朝盛ハ義盛ノ嫡孫也。善ク国風ニ通ジ武道ニテ将軍実朝ニ仕ヘ近習トナス。義盛ノ動兵ヲ朝盛ハ知リ、ソノ非ヲ止メルベカラザルヲ、将軍ニ謁シ歌ヲ詠ジテ意ヲ将軍ニ陳(の)ベル。将軍ハ嘆クモ賞ヲ加ヘ封ズ。朝盛ハ謂(い)フ、忠ヲ欲スレバ孝ナラズ、孝ヲ欲スレバ忠ナラズトシ、便(すなわ)チ剃髪シテ実阿弥ト号ス。京ニ去リ赴コウトシタガ、義盛ノ使人ガ追イカケテキタ。以(もっ)テ以来事ニ従ヒ、兵敗レ韜晦(とうかい)ヲ待ツノ時、承久ノ役(えき)ニ心ヲふるい起こし、義ヲ唱ヘ、皇軍ノ副将ノ任ニテ濃尾ヲ転戦シタガ利アラズ阿波ニ潜ミ後チ、従士川名、加藤、金崎、鈴木、青木、小林、根岸、米本、長沢等十六人ト旧領塔ノ台ニ父祖ノ冥福ヲ修シ、土ヲ以テ皆帰農ス。朝盛モ亦(また)一宇ヲ構ヘ高円坊ト称シ、山野ヲ拓(ひら)キ耕織ヲ励マシ、名分(身分とそれに伴う本分)ヲ説ク、郷ノ人ノ知ル所トナリ。有志相ヒ謀リテ遺址ヲ碑ニ徴(あらわ)シテ建立シタ。」とあり、次いで朝盛を称える四文字の詩文が刻まれています。最後に「大正十年二月 鈴木正繹撰 大井金夫書」と記されています。
碑の傍らに「和田朝盛墓」と刻された高さ80センチ程の自然石の墓石もあります。
(つづく)
|
|
|
|
|
|