連載 第1回 三浦の咄(はなし)いろいろ みうら観光ボランティアガイド 田中健介
なぜ「三浦」と言うのだろうと思っていたところ、『三浦古尋録』(文化九(1812)年秋八月、加藤寿子楽著)の中に「三浦ハ周海(しゅうかい)の地ニシテ北ニ上手浦、東南ニ下手浦、西浦ノ三ツノ浦ヲ合テ三浦ト云也」と記されています。「三浦」は周囲が海で、北側は「上手浦(かみてうら)」、東南側は「下手浦(しもてうら)」、そして、西側を「西浦」としています。ここでの上手は北東を指すのでしょう。また、他本に「三ツノ浦ハ三方ノ行程が同ジ故ニ、三浦ト謂フ」ともあります。
古代では「三浦」の表記ではなく「御浦(みうら)」と表記されていたようです。司馬遼太郎氏の『街道をゆく』の「三浦半島記」に、次のように書かれています。
「『日本書紀』の持統天皇六(六九二)年五月、この御浦を管轄している相模の国の国司が大和の朝廷にやってきて、赤いカラスのひな二羽を献上した。(中略)このとき国司は力づよく踏み出して、『御浦郡(みうらこおり)に(その赤いカラスを)獲(え)たり』と、たかだかととなえた。」とあります。
このことがあって、年号が「朱鳥(あけみとり)」になったのでしょう。なお、「御浦(みうら)」の「み」という接頭詞は、「神・天皇・宮廷などに属するものに記すと、司馬氏は述べ、「いまの横須賀海岸のこの浦は、単なる浦でなく、なにか神聖なイメージが、当時あったかと思える。」とも記しています。
たしかに、承平(じょうへい)年中(931〜38年)に成立した『和名鈔』には、「美宇良(みうら)」とあります。ただ、鎌倉期の「吾妻鏡」には「三浦」と記しています。
「三浦」が所属していた「相模国」の国名由来はなんでしょうか。いろいろな説がありますが、『江戸名所図会』の中に、「武蔵」の語源について本居宣長の説として次のように註釈しています。
「古く佐斯(さし)の国と称した地を上下に分かち、佐斯上(さしがみ)がサガミ(相模)となり、中心部の身佐斯(みさし)がムサシに転じたもの」としています。
さらに斉藤彦麿氏の説として、「フサカミが相模、フサシモが武蔵としています。いずれにしても江戸の地とこの相模の地。この両地は隣国としての深い関係があったのでしょう。日本武尊(やまとたけるのみこと)が東夷をことごとく平治したので、その武器を秩父岩倉山に納めたので「武を蔵す」意から「武蔵」の名が付いたとの説もあります。
「相模」について、次のような説があります。
昔、相州足柄の地に妻をこよなく愛していた狩人がいたのですが、その妻が病を得て死んでしまいました。その死にぎわに、一つの鏡を夫に授けて、「もし吾れ死して後我を恋しく思ひ給ふ心あれば、この鏡を見給へ」と語って亡くなったのです。その後、夫は悲しんで鏡を見ると、たちまち亡妻の姿が現れるのでした。そして、不思議な鏡なりとして神に祭ったと言うのです。鏡に、その姿を以って「相模(さがみ)」と名付けたと言うのです。これは『大和本記』に載る「足柄神明社」の「神鏡」の話です。
(つづく)
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