連載 第8回「矢作と和田城のこと」 三浦の咄(はなし)いろいろ みうら観光ボランティアガイド 田中健介
「矢作湊(みなと)」と称していたように、海に臨んで集落が細長く、笹の生い茂る丘上の下に続いている「矢作」の里を題材にした小説があります。講談社発行の志水辰夫著の『飢えて狼』です。三浦半島矢作が事件の発端の地であり、最後の対決場面でもあります。
「わたしの店は三浦市矢作の海岸にある。海岸線を走るろくな道路ひとつないことからも明らかなように、三浦半島でも、もっとも鄙(ひな)びたところだ。国道まで一キロ、最寄りの人家まで百メートルあり、裏山では終日ふくろうとこじゅけいが鳴く。夏になると磯つづきの長浜が海水浴客で賑(にぎわ)うが、それとて逗子や油壷の人出に比べたら百分の一もない。海草を採る地元の人以外、普段訪れる者といえば釣人ぐらい、零細なボート屋が網を広げて客を待つにふさわしい場所とはとうてい言えなかった。」とあり、主人公は世界的な活躍もした元クライマー。山で友人を失い、今はうらぶれたボートハウスの経営者として、孤独にひっそりと暮らしている。偶然から、米ソのスパイ活動に巻き込まれ命を狙われ、すべてを失うが、一人自由と誇りを守り抜いて、謎を解き、敵を討つ。話であります。初出が昭和五十一年です。
この作品はついては、「神奈川県学校図書館員研究会、横須賀地区会」の『戦後の小説にあらわれた三浦半島の風土』第11集より抽出したものです。
この小説にも登場する「長浜」を地元では「なはま」と呼称しています。
『三浦古尋録』の「乙本」に「長浜ト云処(いうところ)ノ上の畑是(これ)義盛ノ城跡ノ由(よし)申ス 西ハ長浜 南ヲ矢作ト云フ」と記されています。
長浜の上の台地は「笹原」の小名を持つ、広大な畑地になっています。北側の裾地に白くて大きな建物が見えます。「三浦ふれあいの村」の建物です。その近くの道路辺に「三浦一族の歴史コース」と記された「和田城址」の表示板があります。そこには「現在、和田館はその跡をとどめていないが、この館を囲むようにして木戸脇、唐池(空池)、出口、赤羽根、矢作などの地名が残っていて往時を偲ぶことができます。」と書かれています。
「県立平塚農業高校初声分校」の辺りから北よりの地を「唐(から)池(いけ)」の小名であり、学校の南の地を「出口」と称しています。
長浜の東、「ふれあいの村」の建物がある辺りが和田義盛の居館の地であったのでしょうか。南西が海で、やゝ高い台地でもあるところから、「城」と称する厳重な建造物ではなく、「屋形」又は「館」という建物があったのでしょう。
「笹原」を駆けめぐって弓矢の訓練をする和田義盛が想像されるところです。
(つづく)
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