連載 第11回「和田合戦のこと」 三浦の咄(はなし)いろいろ みうら観光ボランティアガイド 田中健介
鎌倉期の建暦三(1213)年の二月、信濃国の僧で阿静房安念(あじょうぼうあんねん)という人物が捕えられました。調べの結果、同国の泉親平(ちかひら)が故源頼家の遺児を助けて、当時の執権北条義時を討つ計画があることがわかりました。その陰謀の中に和田義盛の子義直・義重と甥の胤長(たねなが)がいたのです。その後、義直と義重は許されますが、胤長だけは許されず、一族の前で後ろ手に縛られ連行され、その後陸奥(むつ)国岩瀬(福島県岩瀬郡)へ配流されました。後になって、北条義時は、胤長の旧屋敷を拝領して、義盛の代官を追い出すなどの行為にでます。
途中で改元があって年号「建保元年」の五月二日に義盛は挙兵し、御所と義時亭を襲います。
その事柄について、『明月記』(1235年成立、藤原定家の日記)の建保元年の五月九日の条に、「伝々説」(註・伝え聞くの意)として、「和田左衛門尉某(じょうぼう)、三浦党と号す、横山党、両人共にその勢抜群の者云々。合い謀り、去る二日申時(さるのとき)(午後三時〜四時頃)、将軍幕下を忽(たちま)ちに襲ふ。」とあり、その時、将軍家は無警備で酒杯をあげ酔っていたと言われ、将軍や北条義時、大江広元らは山へ逃げ入った。と記されています。
『本朝怪談故事』(正徳六(1716)年【八代将軍吉宗公の時代】に刊行)の中に、次のような話が載っています。
「往昔(そのかみ)、建保元年ノ頃、和田ノ義盛、実朝公ヲ恨ンデ遂ニ謀叛(むほん)ヲタクム。露顕シテ一戦ニ及ブ。義盛ガ三男ニ朝夷奈ノ三郎ト云、勇カ無双ノ者アリテ、門ヲ破リ庭ヘ乱レ入リ、鎌倉勢多討レケレドモ、終ニ此戦討負テ、和田ノ一家、此時(このとき)皆々或ハ逐電(ちくでん)シ、又ハ討死シケリ。義盛六十七歳ニテ討死シケリ。其ノ時、彼ノ朝夷奈ハ相残レル五百騎計(ばかり)ノ勢ヲ引具シテ、船ニ乗リテ、安房国ヘ赴キ、夫レヨリヌ高麗(こうらい)(朝鮮中古の王朝)ヘ渡リテ釜山(ふざん)海ト云所ニテ、嶋人ヲ伐靡(きりなびけ)、遂ニ此ノ所ニテ死シテ神トナル。則(すなわち)、嶋ノ神ト号ス。彼国ノ者ハ専(もっぱ)ラ朝伊奈ノ社ヲ祭リテ力ヲ請(こう)故ニ、名(なづけ)テ浦人ハ力神(ちからがみ)ト号スト『異人叢話』ニ見エタリ。」とあります。また、「案ルニ『神社考』ニ、為朝、朝伊奈ノ社ヲ載テ、今ト同。曰(いわく)、『建保元年ニ和田氏伏誅ス。義秀ハ遁(にげ)テ房州ヘ至リ、高麗国ヘ赴ヌ。対馬ノ人、余ニ謂曰(かたりていわ)ク、釜山海ニ朝伊奈社アリテ、浦人時々祭ルト云ヘリ』ト云云」。
なお、この書の註に、「朝夷奈ノ三郎は「豪勇怪力の伝説的英雄である。」として、「残兵を率いて安房へ渡った以後、その終る所を知らずという。そこから、朝比奈島をわたり等の伝説が生じた。」とあります。
和田義盛最期の地と言われる鎌倉の由比郷に「和田塚」と称する地があり、「和田一族戦没地」と書かれた石塔の他、「和田一族之碑」。さらに「和田義盛一族墓」の石塔などが祀られています。石塔の裏の地には数多くの五輪塔も見られます。地元の表示では「和田一族敗死の屍を埋葬した塚として今日まで伝承されている。」とあります。
(つづく)
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