連載 第24回「八景原のこと」 三浦の咄(はなし)いろいろ みうら観光ボランティアガイド 田中健介
「宮川」の地に「八景原」という「小名」(小字(こあざ))があります。江戸時代の文化九(1812)年に書かれた、紀行文集『三浦古尋録』に「此処(ここ)は南の出崎ニシテ青キ大ナル毛氈(もうせん)ノ如シ、此(この)出崎ヨリ眺(ながむ)レバ安房(あわ)、上総(かずさ)、下総(しもうさ)、伊豆、駿河、相模、常陸(ひたち)、甲斐の八州ヲ見ル故ニ八景原ト云(いう)、至(いたっ)テ勝景ノ処(ところ)ナリ。東都ノ詩人歌人等、伝(つたへ)聞テ此(この)地に遊ブ。(句読点、読みがなは筆子のつけたもの)とあります。ここからの眺望で、千葉県はもとより茨城県や山梨県までもが見られるとは驚きです。
近代に入って自殺の名所となり、遊廊から逃げ出した遊女が身投げをしたこともあって、海を眺望できる崖ぎわに「供養塔」が建てられています。大正七(1918)年八月に建てられましたが、十三(1924)年に再建されているように記されています。おそらく、大正十二年九月の「震災」によって壊れたものを建て直したのでしょう。碑の下方に「大正十三年七月再建、向ヶ崎字入、念佛講中」と記されています。
碑は道路に面しています。塔に刻まれている文字は旧字体で「養」の文字も「 」と刻字されています。
碑が建てられる以前の大正二(1913)年の一月に、詩人「北原白秋」は「桐の花事件」による失意と傷心で、死を思い、東京から三崎へ来ています。その折、この「八景原」にも来て、「八景原の崖に揺(ゆ)れ揺るかづらの葉かづら日に照るあきらめられず」・「八景原春の光は極みなし涙ながして寝ころびて居る」、などの和歌を詠んでいます。
この地のことを野上飛雲氏は『北原白秋その三崎時代』の中で、この地について、「絶壁を吹き上げる風も女の呻(うめ)き声に似たり、礁に蠢(うごめ)き寄る白波にも陰惨さが加わり、磯鴨の声に物あわれが漂う一画がある。」と記しています。
北原白秋は十年後の大正十二年の二月、前田夕暮と共にこの地を訪れています。当時、向ヶ崎にあった「臨江閣」という旅館に宿泊した翌朝、朝酒に酔いながらも、なお、酒を携えてのことでした。
それは、うっすら雪の残る晴天の時であったようです。「崖の上の高畑道のはだら雪踏みほそりつつ一人は遠し」と、夕暮に行き遅れた白秋が詠んだものです。それに対して夕暮は「春あさき八景原の日の光海に照りあまり山に照りあまる」と詠んでいます。
(つづく)
|
|
|
|
|
|