連載 第30回「城ヶ島のこと その6」 三浦の咄(はなし)いろいろ みうら観光ボランティアガイド 田中健介
三浦市内に住む方々の姓氏が地域によって特色がみられます。
城ヶ島について、『城ヶ嶋村沿革畧誌』(加藤泰次郎氏編纂)の中に、島の宗家十八氏の姓氏が記されています。皆「捕魚」を業とするとも書かれています。その姓氏とは、「石橋・加藤・濱田・中村・金子・藤井・村田・下里・木村・出口・亀崎・青木・黒川・星野・飯嶋・染羽」の諸氏を挙げ、さらに脇坂・杉山の両氏を加えています。中でも、「亀崎・下里・出口」の諸氏は三浦道寸義同の亡臣と言われているとも記されています。現在、「出口姓」は諸磯地区に多くみられます。
城ヶ島出身の人で、興味深い話が、「中公文庫」の矢田挿雲著の『江戸から東京へ』第二巻、浅草(上)に記載されています。
「原田きぬ」こと、「夜嵐おきぬ」と呼ばれた女性のことです。
城ヶ島の佐次郎という漁師の娘であるが、ある日浜辺で遊んでいるところを、浅草猿若町三丁目の道中師(飛脚・荷宰領など、他人の用事で旅をする者)鎌倉屋勘七なる者が、おきぬの容色に眼をつけ、十両の金で買いとって、江戸へ連れ戻った。それから二、三年垢(あか)を落して、芸事を仕込(しこ)み、十六才の年に、「鎌倉屋小春」と名乗らせて、芸者にした。十八才の年に、兵庫灘の酒造家高田屋吉兵衛の倅(せがれ)吉之助に落籍(ひか)されて、吉之助の国へ伴われる途中、今切(いまぎり)の渡しで番頭幸助に海中へ突き落されて、荒井の磯へ打ち上げられた。それを土地の遊び人の房吉に救われて、我に復(かえ)ったおきぬは、初めて人の心の計(はか)りがたきこと、正直にしているのは馬鹿らしいことなどを悟った。番頭幸助の無情な忠義、恩を売りつけて、狼の爪を砥(と)ごうとする房吉の義侠(ぎきょう)心、この二人の心を通して、世間全体を独断して、可憐(かれん)なおきぬは毒婦へと一変した。
その後、「花代」と名のり下野(しもつけ)国那須郡烏山の大久保佐渡守なる三万石の大名の妾となり、その殿様が亡くなって「真月院」と名を改める。しばらくして、日本橋の紀の国屋の倅(せがれ)角太郎と知り会う。しかし、角太郎は近江屋の娘との縁談が始まって、おきぬの元へ寄りつかなくなった。おきぬは生まれて始めて、燃(も)ゆる嫉妬を覚える。明治の代になって、東京府士族小林金平の妾となった。しかし、伊之吉という芝居者が、嵐璃鶴(りかく)という人物をおきぬにとり持つことゝなり、金平を毒殺することになってしまった。明治四年、死刑の宣告を受けて、二十八年の恋愛生活を閉じることになって、辞世の句「夜嵐の覚(さ)めて跡なし花の夢」という調子の高い句を残して、世を去っていったのである。
城ヶ島が出身の数奇な運命の女性の話であります。
(つづく)
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