東京大学三崎臨海実験所異聞〜団夫妻が残したもの〜 文・日下部順治その20 実験所を支えた地元の2人【5】
昭和15(1940)年12月1日、先任の採取人である青木熊吉が逝去。同8日、太平洋戦争に突入し、実験所も重さんも戦乱の時代に巻き込まれていきます。三浦半島は江戸時代から海防の要衝で、一帯に洞窟陣地やトーチカが築かれました。一方で油壺湾、小網代湾、諸磯湾には特殊潜航艇基地が設置され、実験所はその本部となったのです。
敗戦の色が濃くなった昭和20(1945)年2月、実験所は海軍に接収。人も物も構内から立ち退かされました。ただ、水族館内部だけは軍が使わなかったので、標本を残して封印され、重さん夫妻は油壺の民家に留まって、口実を作っては施設の様子を見に行きました。
特殊潜航艇も出動しないまま、昭和20年8月15日、敗戦を迎えました。敗戦を予想した当時の岡田要所長が英文でしたためた紙を重さんに密かに手渡し、降伏する時が来たら門に貼り出すよう命じてありました。実験所のメンバーには、それだけの国際感覚があったと言うことなのでしょう。
ところが、紙を貼る重さんを見た海軍将校が軍刀に手をかけ、切り捨てかねない勢いで怒り出すのですが、重さんは後年談で「オラは大学の命令どおりにしてるだ。海軍さんが破る気なら、大学の許しを貰ってくれにゃ困る。軍人なら、命令を守らにゃならんくらいわかるだんべ」と啖呵を切って突っぱねたと語り、体を張って軍に抗した気丈な人でした。その後、米軍との交渉のため実験所に来た団勝磨はその紙を見ておらず、どうやら重さんが立ち去ったあとで剥がされたのでしょう。
敗戦とわかると、兵隊も将校も付近の住民も軍の物資を略奪。もう秩序も何もありませんでした。重さんは多くを語っていませんが、近所の連中とやりあって、実験所の施設を破壊から守ったようです。これも命がけだったに違いありません。
8月28日、米軍先遣隊が厚木飛行場に進駐。30日にマッカーサー元帥も厚木に到着しますが、同29日、重さんは海軍の伝言を手に長井の団家に急ぎます。米軍が実験所を接収に来るので、大学関係者に同席してもらうためです。米軍の目的は9月2日に東京湾ミズーリ号で実施予定の降伏調印式に備え、特攻用潜航艇を爆破すること。もちろん実験所も対象でした。米軍にとって「特攻」は最大の脅威だったのです。同30日、勝磨は長井から自転車で実験所に駆けつけ、午後、米軍先遣隊の4人と日本側は海軍将校3人と勝磨で対峙することになります。(つづく)
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