連載 第55回「ふところ日記【1】」 三浦の咄(はなし)いろいろ みうら観光ボランティアガイド 田中健介
明治三十(1897)年一月から三月にかけて、『読売新聞』に掲載された川上眉山(びざん)の「ふところ日記」に次のように記されています。
「(前略)三年この方物狂(ものくる)はしくも哲学を疑ひ、宗教を疑ひ、世を疑ひ、我を疑ひたりし果(はて)は、此(この)肉と骨とを粉砕せむ事を思ひ、(後略)」とあって、その後(あと)の方に、「しばしの骨休(ほねやす)めをとのみ又も旅せむことを思立ちぬる」とあって、目黒を出たが、汽車に乗り遅れたので、人力車を飛ばして品川へと向かったのです。その間の描写を次のように記しています。
「月もなし、起きたる家もなし。二本榎(にほんえのき)あたり、門松竹の両側に立並びて注進(しめ)にゆらめく幣(ぬさ)(神に祈るときにそなえるもの)のほの白き道を過ぐるに、行くものは唯(ただ)我が車あるのみ。車夫よく走る。」とあって、品川の停車場に入っての混雑ぶりを、「水際立ったる人々のきほひ(意気ごみ)や春や此夜(このよ)や、雑沓(ざっとう)に降参(こうさん)して辛(かろ)うじて汽車に上る」とあって、その後、鎌倉を経(へ)て逗子で降り、「日蔭茶屋」に宿泊します。翌、一月四日、「一岬(いっこう)高く出でたる長者が崎の上に出づ。」とあって、そこからの眺望について、「長井の荒崎は南に長く、天神が島は近く三浦が崎は遠く」とあります。
その後、「長井」に宿泊します。翌日、酔って長井を出て、和田にやって来ます。
「むかし和田の義盛が生れし処ぞと聞きて、丸三つ引の旗風にここらわたりの野をも山をも打靡(うちなび)かせたる三浦の一党が鎧爽(よろいさわや)かなりし当時を思ふに、村老既(すで)に記せず、行人更(さら)に顧(かえり)みもせで(しないで)行過(ゆきすぎ)ぐる山田(山あいの田圃(たんぼ))の畔(くろ)に、鴫(しぎ)一羽ちょろ〳〵駈けありく風情がまたあわれなり。」とあって、さらに、「すでにして行々(ゆくゆく)又海を見る。日は早く暮れむとす。堤防長く練絹(ねりぎぬ)の如(ごと)き波を限(かぎ)れる水の江の際(きわ)に出(い)づ。島あり、波島といふ。右に荒崎を望み、左に黒崎を指す。夕日を洗ふ沖つ白波一簇(ひとむら)(白波が一つにあつまっている様子)しげき磯松の水に躍(おど)って、空に飛べる、墨色太(すみいろはなは)だ
秀(ひい)でたり。舟もなし。臙脂(えんじ)(黒みがかった赤色)を流す雲と波とそれも暫(しば)し、日は西に名残の色をとどめて、忽(たちま)ちにして水のあなた(向こうの方)に入る。
行暮れて宿かる頃や花の香を探(さぐ)るべき時にも処(ところ)にもあらねば、道端(みちばた)に蕪(かぶら)積みかけて、明日は房州(千葉)に送らむとぞ立ち働ける男に問うて、外(ほか)に宿なければ止むなくいぶせき(むさ苦しい)家に泊まる。」とあって、この夜は初声の地にて、酒を飲みながらの宿泊でした。
(つづく)
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