連載 第63回「三浦古尋録その【2】」 三浦の咄(はなし)いろいろ みうら観光ボランティアガイド 田中健介
前回に述べた「安房口神社」のことについて、神社の境内に由緒が記されています。それには、「御神体の霊石は、その昔、安房国洲崎明神に竜宮から献上された大きな石が二つ置かれていて、ある時、その一つが安房大神太玉命(ふとだまのみこと)の御霊代として東国鎮護のためにこの場所に飛んできたといわれています。」とあります。
また、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征のとき、勝利を祈願したと伝えられ、また、源頼朝も武運を祈願したともいわれ、三浦一族も吉井に怒田城を設け、航海の神として信仰していたとも伝承されています。この地は、房総への重要な交通路で、古代の東海道の要衝であった。とも伝えられています。
また、この神様は「子産石」同様、安産祈願の神様でもあるのです。
残る二石は「三浦市」にあります。六つ目は、三戸の諏訪明神社の前の浜にある石を指すようです。『古尋録』には「此社(このやしろ)ノ前ナル浜ニ九尺四方モ有(ある)大石二ツ有(あ)リ」とあって、その註に、「是(これ)ハ昔シ廻船積来ル処、此(この)浦ニテ難風ニ逢フ、ソノ時ヨリ有(ある)と申伝(もうしつた)フ」とも記されています。
三浦市で作られた「遠い日のふるさと―思い出三浦―」(平成四年三月三十一日発行、市民の歩みを記録する会編集)の第八集に「サンコロ石と天神丸」(山崎清次さん)の中に、次のような記述があります。
「三戸の浜には『サンコロ石』と『天神丸』という大きな石が、約500メートルぐらい離れた所に、それぞれ三つづつあった。サンコロ石、今でも農協の下の浜で頭を出しているが、天神丸は砂の中に(お宮の下の浜)埋まっちゃってるヨ。」とあります。さらに、「サンコロ石は、一つの長方形の石と直角にもう一つの石があり、その北側にもう一つといった具合に並んでいた。」とも書かれています。地元の人の言では「大きな石が三つ、ころがっているからサンコロ石。天神丸は船の名前だと思うけれど、昔、石を積んだ船が三戸沖で遭難し、船は沈んでも石だけが残ったんだと、年寄りから聞いた。」ともあります。
平成八(1996)年、茅ヶ崎市の社会科研究会の調査では、神社下の天神丸の大石は、縦337センチ、横120センチある直方体の岩石で、東伊豆の畳石とほぼ同じで、もう一個も315センチ、130センチであったと言うことです。
現在では、農協下のサンコロ石が二個、神社下の天神丸二個が確認されています。(つづく)
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