三浦の散歩道 〈第35回〉 みうら観光ボランティアガイド協会
「琴音(ことね)」の浜辺に立って海を眺めると、砂浜に続いて岩礁が点々と沖に向かって並んでいるのが目に入ります。
「三浦古尋録」(文化9年・1812年加藤山寿著)の「菊名村」の箇所に次のような記述があります。「此処(このところ)ノ浜岩井口ノ琴音ト云(いわる)ル磯有(あり)此磯海中有(あり)テ清水湧ク是ハ昔シ法昌寺ノ観音上(あがらせ)テセ給ヒシ処ナリト云今二其(その)霊水湧出(ゆうしゅつ)ス」と。さらに、「新編相模風土記稿」(天保12年・1841年完成)には、「此地清泉湧出す」とあり、島嶼(とうしょ・水中の洲)三あり」と記されています。
この琴音磯については、いくつかの由来が残されています。ひとつは、新井城主三浦道寸が、家臣の菊名左衛門を伴って、狩りの帰り道にこの近くを通ると美しい琴の音が聞こえるので、音のする浜へ出て見ると岩間に湧き出る泉水の音であったという話。また、狩りに出かけたのは源頼朝であり、湧水に咽の渇きを癒したので、この地を琴音の清水と名づけたという話もあります。
「三浦の伝説と民話」(三浦市観光協会発行)に次のような話が載っています。長くなりますが引用します。
「貧しい漁師の若者が、病身の老母を抱えて苦しい生活をしていた。母に与える薬代にも窮してしまったが、家の中に売り払うものもない有様だった。若者は仕方なく、日頃母が信仰していた仏像を売って薬代にしようと決心した。夕方床に伏している母に隠れて仏像を懐に入れて、家をそっと脱け出た。母の大事な仏像を売ってしまうのかと、胸を痛ませながら浜辺を急いでいると突然、石につまずいた。途端に懐の仏像を取り落としてしまった。仏像はトントンと深い岩の間に飛び込んで、暗い闇にかくれ、探しても見当たらなかった。若者は自分の不心得を恥、暮れた寒い浜辺を家に重い足をひきずるようにして帰った。母に過ちをわびた若者は、翌朝、夜明けを待って再び仏像を探しに浜辺に出た。すると、近くの岩の間から美しい琴の音が聞こえてきた。驚いた若者は、琴の音に誘われて近づいてみると、我が家の仏像が慈悲に輝く微笑をたたえながら、琴を弾いていた。若者は不思議な情景にびっくりして、このことを村長(むらおさ)に告げた。村長はもったいない仏像であると、これを祀った。その後も磯の間からは琴の音は絶えなかった。役人は、若者の孝心をほめ、仏が必ずお前を助けてくださると訓(さと)したという。果せるかな、老母の病は治り、大漁が続き、たちまち楽しい暮らしができるようになったという。それからこの磯を「琴音磯」と呼ぶようになった」。
いろいろな話を伝える磯を過ぎ、海に注ぐ仲川に架かる菊名橋を渡り、「川向」から菊名の「仲里」へと歩を進めましょう。
つづく
「チェルSeaみうら」徹底解剖6月21日 |
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