三浦の散歩道 〈第52回〉 みうら観光ボランティアガイド協会
剱崎灯台の真下の海辺に「剱神社」は祀られています。「関東ふれあいの道、江奈湾へ1・7キロ」とある標識のすぐ近くの岩場に向かい合う形で社(やしろ)があります。『三浦郡神社由緒記』(昭和10年刊)によりますと「劍神社」(このように表記されています)の祭神は「大己貴命」(おおなむちのみこと)とあります。この神は「大国主神」(おおくにぬしのかみ)と同一で国作りの神として知られています。由緒は不明として、大正5年(1916)当時の指定村社であった「神明社」に合祀されたとあります。その後、この洞窟の前の祠は「龍神」として祀ったと言われています。
剱神社の参詣をすませて海辺から谷戸を戻って来る左手に井戸らしきものにコンクリートの蓋がしてあるものが目につきました。すぐ近くに「矢の根井戸」と書かれた説明板があります。それによりますと、「源為義の第8子、源為朝は幼少より意気豪逸で13歳のとき、父為義により九州へ放逐されたほどですが、その九州でも武威を大いに発揮土地の豪族を征伐して、みずから鎮西八郎為朝と称して勢力を奮いました。しかし、その為朝も「保元の乱」では、藤原頼長の判断力欠如から作戦の策が用いられず、これがもとで敗退、ついに平清盛の武将平家貞の捕えるところとなりました。
ただし、その武勇を惜しむ声により、死一等を減じられて伊豆大島に流罪となりました。きのうの威とはうって変ったきょうの悲運、為朝は流人の島から、「わが弓勢昔に変らずや」と、鎌倉に向かって矢を放ち、せめてものうさ晴らしをしたと伝えられていますが、その矢が誤ってここに落ち、その矢の立ったこの地点から泉がこんこんとわきでて、井戸になったので「矢の根井戸」と呼ばれるようになったと伝えられています。「三浦市」と書かれています。さらに坂を上がって行くと「公衆トイレ」もあります。交差した道を左に行きますと、鉄柵に囲まれた建物が見えて来ました。「剱崎無線方位信号所」です。もうひとつ隣に、コンクリート造りの建物が見えます。それは、太平洋戦争の折、この辺りに砲台が設けられたときの「油庫」ではないかと思われます。しっかりした建物に見えます。
道を「バス停剱崎」に向かいます。かつて、大正時代「松輪崎の灯台」を目ざして歩いた若山牧水のことが頭に浮かんだ。畑の中を歩いたであろうことを…、いま歩いているこの道も周囲は大根の畑で、緑いっぱいです。遠望すると、雪を被(かぶ)った富士山が見えます。また歩を進めて行くと左前方に宮川の「風車」も眺められました。「剱崎バス停」までの約1キロの道は豊(ゆたか)さをもたらしてくれる道です。
つづく
「チェルSeaみうら」徹底解剖6月21日 |
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