三浦の散歩道 〈第88回〉 みうら観光ボランティアガイド協会
「内の引橋」と称する処から左へ入る道を行きます。入口の右は「東大臨海実験所」になっているので、油壷湾沿いの道を「荒井浜」に向かって進みましょう。道の右側は土堤になっていて、木々が茂っています。左側は所々に「平場(ひらば)」はあるものの、油壷湾へ続く崖になっています。しばらく行くと、右側の土堤が切れて、かつての城内に至る堀があり、左右に盛り土された「土塁(どるい)」が見られます。さらに進みますと、左側に油壷湾への入口とおぼしき処へと出ます。東を向くと正面に「名向崎」が指呼(しこ)の間(かん)に見えます。南側には「諸磯湾」も望めます。さらに行きますと、右手に下る階段があります。荒井浜へ至る階段です。この荒井浜では、五月末に、馬に乗って的を射る「笠懸」が行われる「道寸祭り」が催される浜でもあります。かつては城ヶ島と此処とを結ぶ観光船の発着所もあったのですが、現在はその姿はなくなっています。浜へ降りる左手には、戦後、遠足で訪れたこともある「水族館」であった建物が見られます。入口の水槽は昔のままですが、その頃には大きな海亀が泳いでいたことをなつかしく思い出されます。
浜へ降りずに直進しますと、右側にコンクリート製の土台が目につきます。ここに、海水を汲み揚げるための風車があったのではないかと想像します。大正期の始め、三崎に在住した北原白秋も、この辺りを遠望して、(前略)「油壷の入江が見え、向ふの丘の上に破れかかった和蘭(オランダ)風の風車が見えてくる。その下に大学の臨海実験所の白い雅致(がち)のある洋館がある。(後略)と『畑の祭り』の中で記しています。さらに、こんな短歌も詠んでいます。「夕焼小焼大風車のうへをゆく雁が一列鴉が三羽」と。
坂を下った正面に明治の代に建てられた洋館があったのですが、焼失してしまいました。左手には現在も使われている実験所があり、その左奥の海側に「千駄やぐら」と呼ばれた洞窟がありますが、現在は見ることもできません。
再び、「内の引橋」の所へと戻り、「二の丸」跡とか、「合戦場」と呼ばれるマリンパークの方へと足を延ばし、突き当りの入口を右に曲がって降りたところが「胴網海岸」です。その海岸へ至る道へ入り、手前の右へ折れる道の先きに、かつての城主「三浦道寸義同公」の供養塔があります。天明二年(1782)に建てられたもので、正面に、丸に三つ引きの家紋と共に、「従四位下陸奥守道寸義同公墓」とあり、左側面に「永正十五年寅年秋七月十一日討死、諡号(しごう)永昌寺殿道寸義同公大禅定門神儀」とあり、辞世の歌「うつものもうたるるものもかはらけよ、くだけてのちはもとのつちくれ」と刻されています。右側面には「天明二壬寅秋七月永昌九世正機、募化縁造立、施主正木志摩守、三浦長門守、杉浦出雲守、松平縫殿助、松平縫殿頭家臣松本文左衛門、奈良長蔵」と刻字されています。 (つづく)
|
|
|
|
|
|