連載 第25回「城ヶ島のこと」 三浦の咄(はなし)いろいろ みうら観光ボランティアガイド 田中健介
明治二十(1887)年に記るされた『城ヶ島村沿革畧誌』(加藤泰次郎編纂)が「三浦市民俗シリーズ」として、市の教育委員会から発行されています。その中に「城ヶ島」の名称について述べられています。
「本村ハ古時三崎郷に属シ桜島ト称ス。又、一説ニ永正中(1504年〜1520年)、荒井城(新井城)ノ后(のち)馬場氏近ク此ノ地ヲ管ス。后(のち)、又武田信玄ノ臣間宮酒造(みき)ノ亟(にょう)、三崎城ニ居ルテ時、本島ニ番兵ヲ置キ、里見氏ノ来侵ニ備フ。依(よっ)テ城ヶ島ノ名アリト云フ」。さらに「本村ノ名ハ又(また)、尉ニ書キテ、古(いにしえ)一人、尉本島ニ住ス、故ニ此ノ名アリ、源右府(頼朝)遊覧ノ時、城ニ改ムト云フ」(引用文の読みがなや句読点は筆子によるものです。)
さらに、小説『桜の御所』(村井弦斎著)の中に、次のようなところが描かれています。主人公の「小桜姫」が城ヶ島へ渡る場面です。
「抑(そ)も此島を尉が島と名(なづ)くる事如何(いか)なる謂(いわ)れあるやらんと小桜姫、舟人に尋ね給えば舟人畏(かしこま)り、『左(さ)ればに候(そうろ)う、昔し此島に一人の尉(にょう)棲み又彼なる沖の島に一人の姥(うば)の棲み候うが朝夕顔を見合せども海を隔てたれば語るに由なし、互の志は深けれど舟なければ渡る事も叶わず、共に岸辺に立出でて海を眺めて難きけるが竜神も哀れに思いけん毎年一度五月五日に海亀を浮べて姥を此島に渡されたり、左(さ)れども夏の夜の短きは語らう暇もなき内に再び海亀に促され復た彼の島へ帰されければ姥は本意なき事に思い或(ある)日大木(たいぼく)の潮に流れて寄りけるを渡りに舟と棹(さお)して窃(ひそか)に此(この)島に来(きた)らんとしけるが竜神の怒りにや触れけん、或(あるい)は霊木の崇りにや波に揺られて海に沈めり、尉は岸より其有様(ありさま)を眺め泣く泣く大木を引寄せ見るに幹に〆(しめ)縄張りたれば、こは疑いもなき神木と坐(そぞ)ろに渇仰の念起り島に曳(ひき)揚げ其(その)木を以(もっ)て玉津島明神の尊影を刻み、此(ここ)に祭りて其(その)身(み)も百年(ももとせ)の齢(よわい)を保ちしとかや、其(そ)の刻める尊影こそ今も明神の御身体にて向うに見ゆる亀の子岩は其(その)時の海亀なりと申伝えて候う』と島の由緒を物語る、折から舟は岸に着けり。」と書かれています。
いかにも「物語風」と言えるようですね。
以前、十六回目のところで、すでに紹介しておりますが、この『桜の御所』は、上下二巻、一〇四章からなる長編小説で、明治二七(1894)年都新聞に連載されたもので、戦国乱世において、敵味方に分かれて戦うことになった、三浦道寸義同の嫡男荒次郎義意と隣国金沢の城主楽岩寺下総守種久の娘、小桜姫との悲恋を中心に展開される物語で、小桜姫はあの、巴御前に勝るとも劣らない勇婦として描かれています。
(つづく)
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