東京大学三崎臨海実験所異聞〜団夫妻が残したもの〜 文・日下部順治その16 実験所を支えた地元の2人
三崎臨海実験所は、団勝磨・ジーン夫妻をはじめ、多くの秀でた研究者・学術論文を輩出してきましたが、そこには陰で支えた2人の功労者がいました。今回はその“採集人”を取り上げます。
「三崎の熊さん」こと、青木熊吉。彼は三崎の漁師の息子で、後年、採集人として遠く欧米にまで名を知られました。
以前から採集の仕事を受けていましたが、明治31(1898)年、本格的にこれを職にすると才能を発揮します。はえ縄は巧みで、船を操る腕も優秀。三崎の海底を自分の庭同然に熟知し、勘は人一倍鋭い。機知に富み、採集法も色々と工夫していた、まさに「天性の採集人」でした。また、頼まれた生物だけでなく、珍奇な生物を探し求めては進んで海に出たと言い、彼の手で見出された新種は、どのくらいあるかわからないほど。実験所には無くてはならない存在であり、教授たちは「熊」や「熊公」と呼んで可愛がり、学生からは「熊さん」と親しまれた、皆が頼る達人だったのです。
そんな熊さんも、読み書きはからきしダメ。実験所の初代助手・土田兎四造に片仮名を教わるのですが、頭の回転は速く、記憶力も抜群。努力の人だった彼は、横文字の学名を片っ端から暗記していったそうです。
明治37(1904)年、三崎を訪れたドイツの海洋動物学者ドフラインも、「ヨーロッパ語の一語を解さない一漁夫が、自分で採集してきた生物の大半のラテン名を知っているということは、この上ない驚きであった」と述べています。このように熊さんにまつわるエピソードには事欠きませんが、その一つに「長者貝」の一件があります。
明治26(1893)年頃、イギリスの大英自然博物館から当時の帝国大学動物学教室に貝の標本の注文が舞い込みました。当時の初代所長だった箕作佳吉教授は、すぐさま熊さんに採集を依頼。数カ月後、苦心の末に沖ノ瀬で1個体をはえ縄で釣り上げると、箕作教授は大喜びし、即座に熊さんへ30〜40円を与えました。ちなみに大英博物館の注文価格は1個100ドル(約100円)。三崎―東京間の船賃が10銭だった頃の話ですから、多額の謝礼に熊さんは踊り上って喜んだのでしょう。このことから、この貝の別名は「チョウジャガイ(長者貝)」になったという逸話が残っています。
熊さんが採集した新種は、数百に達するものとみられますが、その名を冠する生物は、意外にも3種だけです。
(つづく)
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