あの日の空は、いつもより明るかった――。
満州・ハルビンの陸軍病院で生まれた。4歳の時、軍人の父とともに、日本に引き上げた。本土行き最後の船中では、誰かが病人や赤子を抱え、海に捨てていた。「なんで」。幼心に思った。「食料や医療品がない時代、ミルクなどあるわけがなかった」。大人になってから意味が分かった。
海老名から東京・町田にあった国民学校へ行くことになったが、入学どころではなかった。米軍機が飛び交う大戦末期、昼夜なく空襲警報が鳴り響いた。「米兵は笑いながら撃ち殺していた」
死体の山を横目に、連日連夜、防空壕の中に身を潜めた。泣きわめく弟と妹の口の中には、おむつが押し込められた。轟音と同時に、地響きで小さな体が浮き上がった。「こわい」。思わず外に出ようとすると「鉄砲で狙われる」と母が言う。そのうち相手の数機が墜落。「バンザーイ」。皆で一喜一憂した。
泥水を飲み、焼け野原の間にわずかに生えた草や野良犬、猫、ミミズを食べて空腹をしのいだ。親とはぐれた裸足の子どもたちは食料を探し回っていたが、数日後には亡くなっていた。
そして敗戦。普段は出ないおもゆを食べた。「米は5〜6粒だったけれど、ごちそうだった。これからどれだけの苦労するのかと考えた母のせめてもの愛情だった」。
軍人追放された父が親戚を頼り、静岡・浜松へ。河原で拾い集めた木々で作った住処は「鳥小屋のようだった」と表情を曇らせる。周り近所から「貧乏」と馬鹿にされた。それでも父は「何も恥ずかしくない。人間正直に、たくさん勉強して、困っている人がいたら助けなさい」と教えた。家の前には山吹の木。「七重八重花は咲けども山吹の実の一つだに無きぞ悲しき」。父が詠んだ太田道灌の歌は、戦争でできたあざのように今も心に刻まれている。
その後、22歳で結婚。敵味方なく助けるナイチンゲールに憧れて看護師になった。定年を機に20年前、藤沢に移住。ふじさわ・九条の会の一員として、反戦を訴える署名活動に参加している。
欧州と中東で起きている戦争に胸を痛める。「憎しみしか残らない愚かな戦争。若い人には世界中の人を笑顔で愛し、平和を守ってほしい」
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戦後79年の夏を迎え、戦争の記憶が風化しつつある。体験者からの証言をもとに、平和の意義について取材した。
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