現代のモバイル型情報化社会の礎を気付いたリチウムイオン電池が最高の栄誉で称えられた。ノーベル化学賞の受賞が決まった吉野彰氏(71)。謙虚で朗らかな人柄の一方、研究には「柔軟性と執着心」をモットーに向き合い続けた。遠藤在住、研究者としてのスタートは旭化成川崎技術研究所と神奈川にもゆかりが深い同氏。開発秘話や藤沢への思い入れについて聞いた。
「藤沢市民として光栄」
――ノーベル化学賞の受賞決定、おめでとうございます。改めて今の心境を聞かせてください。
「受賞当日と翌日は興奮状態であまり実感がなかったのですが、(2日経って)ようやく湧いてきたように思います」
――受賞者が藤沢市在住ということに市民から驚きと祝福の声があがっています。
「私は大学終了まで大阪と京都で過ごしてきた根っからの関西人なのですが、旭化成に入社して最初に配属になったのが川崎研究所で40年ほど前、藤沢に転居してきました。やはり関西人から見ても『湘南』は芦屋(兵庫県)と並ぶ憧れの場所。私も藤沢市民として受賞できたことを光栄に思っています」
――藤沢市としても今後表彰や講演会など市民と接点を作る機会を設けたい思いがあるようです。
「今回の件が時期的に落ち着いて、そうしたご依頼があればスケジュールを調整したいと思います。地元の皆様に向けて話したいこともありますし、学生との交流も歓迎です」
――長年情熱を傾けてきたリチウムイオン電池は形になりました。研究者としての今後は。
「もちろん研究は続けていくつもりです。研究者・技術者は生のデータに接していないとすぐに”錆びる”。自分の手で実験するような直接的な研究活動ではありませんが、色々な研究者との交流や相談ごと、あるいは大学や技術研究所などでの活動を通じて今後も研究に携わっていきたいと考えています」
着想の日、偶然に
――川崎研究所の在職時代、リチウムイオン電池の開発につながったエピソードはありますか。
「1982年の大晦日の午後、時間ができて論文を読もうと資料を取り寄せたところ、その中にリチウムイオン電池の正極材料に関する文献がありました。それが当時研究していた負極材料と非常に相性が良さそうだと予想できた。空白の時間にできた出会いというか、それが現在の電池の組み合わせが決まった瞬間だったと思います」
――リチウムイオン電池は地球温暖化への切り札として注目を集めています。開発者として期待は。
「電気自動車に関しては、電池を開発した当初から(商品化の)話があがっていましたが、電池の性能が折り合わず、実現は不可能という見方がほとんどでした。しかし、モバイル機器を中心としたIT分野でこの20数年の間に市場実績ができたことで、かつて夢物語と言われた電気自動車も消費者の手の届く段階まで来ました。リチウムイオン電池は電気自動車をはじめ、環境問題に対しても大きな変革をもたらす可能性がある。期待しているところです」
次代にエール
――受賞時の記者会見で後進の若手研究者や未来を担う子どもたちに言葉を送っていたのが印象的でした。地元藤沢の子どもたちにもエールを。
「自分でしっかりとした目標を立てて、それに向けて一生懸命努力すればノーベル賞だって必ず取れます。色々な分野で活躍する人が、子どものときの感動や出会いが人生を左右するきっかけになっている。そうした刺激やきっかけを大事にしてほしいと思います」
◇吉野彰(よしの・あきら)氏 1948年1月30日生。70年京都大学工学部石油化学科卒。72年同工学研究科を修了し、同年旭化成工業(現旭化成)入社。82年同社川崎技術研究所、01年電池材料事業開発室長などを経て03年グループフェロー。05年吉野研究室室長。15年同社顧問。17年名誉フェロー。リチウムイオン電池材料評価研究センター理事長や名城大学教授などを歴任。04年紫綬褒章。19年6月欧州特許庁の欧州発明家賞を受賞。71歳。
藤沢市 ノーベル賞、垂れ幕で祝福
ノーベル化学賞に決まった吉野彰氏の吉報を受け藤沢市は翌10日、市役所入り口そばに懸垂幕を張りだした=写真。
週末に台風が迫っていたため、「業者に依頼すると時間がかかる」と急きょ広報課職員が手作り。「祝」の文字を添え、受賞を祝った。職員の一人は「大変な偉業。同じ市民であるということも多くの人に伝えられたら」と話した。
懸垂幕は縦2m×幅1m。改めて正式な幕を制作するかは今後検討するとしている。
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