1923年9月1日午前11時58分、関東地方をマグニチュード(M)7・9の強い地震が襲った。関東大震災を引き起こした「関東地震」だ。10万人の犠牲者を出した未曾有の災害からきょうで100年。我々は過去の経験からどんなことを教訓として学んだのか。そもそも、藤沢市ではどんな被害があったのか。現代に残る写真や文献などの資料から被災の歴史をひも解いた。
「まるで帽子でもかぶせたやうに屋根が、かぶさっていた」
関東大震災の1年後に編纂された「震災誌」。藤沢尋常小学校の女子児童は、周囲の2階建て家屋の1階部分が潰れて平屋のようになった街の様子を同誌に述懐する。
関東大震災の震源は、小田原から三浦半島にかけての広い範囲だったとされる。「神奈川県震災誌」によると、現在の藤沢市では死者は221人、行方不明者は50人に及んだ。
ただ、死者は主に家屋倒壊によるもので、火災で大きな被害を生んだ東京や横浜と比べれば死傷者は少なかった。当時の農家は昼食を早めにとる慣習があったことや水道が整備されておらず各家庭に水をためてあったことが幸いしたという。
一方、建物や道路、橋梁などの構造物への被害は甚大だった。藤沢市では全世帯の約80%が全半壊し、藤沢警察署や藤沢郵便局、税務署なども倒壊の被害にあった。インフラへの影響も大きく、市内では3週間以上停電したほか、地震被害や脱線事故で東海道線は全線不通となった。
震災の翌年に刊行された「藤澤町大震災寫眞帖」には、全壊した遊行寺や藤沢駅、倒壊した建物の前で立ち尽くす人などの様子がありありとうかがえる。
50人行方不明
津波の被害はどうか。県震災誌などによると、江の島に来た津波は3〜7・1m、片瀬と鵠沼が2〜6mだった。江の島の桟橋を渡っていた人が津波にさらわれて行方不明になったとの記録はあるが、それ以外の人的被害は確認されていない。当時の引地川の北側に高い砂丘があったことなどが幸いしたとみられる。
ただ砂丘に引き上げられていた漁船が引地川をさかのぼった津波で流されたといい「現在運動公園のある八部あたりまで船が流された」(鵠沼郷土資料展示室運営委員長内藤喜嗣さん)という。
また関東大震災では地震後に土地が隆起。内藤さんによると鵠沼海岸では90cmの隆起で海岸線が120m後退し、平坦な海岸が広がったという。
100年前と今
市ハザードマップでは最大クラスの相模トラフ地震が発生した場合、沿岸の最大4・7平方キロメートルが浸水すると想定する。浸水想定エリアには約2万8千世帯が立地しており、開発途上期で人口密度が低かった当時とは大きく異なる。
市の人口は44万人を超え、ポストコロナの「湘南人気」も後押しとなり今なお増加傾向にある。もし同様の地震規模で被災すれば、被害は当時とは比べ物にならない。
市域の防災力を高めるためには自助や共助だけでなく、行政が担うべき数十年先を見据えた都市計画の視点も不可欠だ。
大地震が突然起きることはいつの時代も変わらない。現代と過去の共通点や違いを見出しつつ、改めて「次」への備えにつなげたい。
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