鎌倉のとっておき〈第20回〉 鎌倉の史跡〜問注所〜
「問注所」とは鎌倉幕府の訴訟機関で、現在、御成小学校前にその跡の石碑がある(実際にこの場所に問注所があったという事は確かではない。はじめは大倉の源頼朝邸内にあった)。
そして裁判を連想させる裁許橋(鎌倉十橋の一つ)がその南側の佐介川に架かっている。問注所の初代は三善康信という、源頼朝に請われ京都から鎌倉へ下ってきた人物である。そして彼の子孫が代々、問注所執事を継承していった。三善氏は町野氏、太田氏などに分かれ鎌倉幕府の官僚として活躍した。
三善康信の玄孫にあたる康行は、鎌倉時代後期の正和2年(1313年)、鎌倉から九州の筑後国生葉郡(現在の福岡県うきは市)へ下向した。その理由は定かではないが、三善氏の所領があり、直接統治を試みたと考えられる。そしてこの頃、「問注所(問註所とも)康行」と名乗った。なぜ役職である「問注所」を名字としたのかはわからないが、中世では人を名字で呼ぶ事は少なく、官職や住んでいた邸宅地名などで呼んだ。例えば足利将軍も将軍家や室町殿と呼ばれていた。
自称・他称のいずれにせよ、問注所氏は九州に土着以後、主に大友氏に属して活躍し、大友氏没落後は小早川氏、江戸時代には立花氏に仕えたという。
鎌倉時代には、このように多くの御家人が西国へ向かった。源平合戦や承久の乱の恩賞、元寇、分割相続など理由はいくつか考えられる。例えば大友氏、毛利氏、小早川氏など戦国武将で有名な家の祖先は相模国(現在の神奈川県)出身の御家人である。源頼朝に仕えた鎌倉ゆかりの御家人の子孫が、日本各地に移り住んで活躍した足跡を辿るのも面白い。
浮田定則
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