鎌倉のとっておき〈第27回〉 鎌倉と怨霊
鶴岡八幡宮の北西、北鎌倉へ向かう道にある参拝者駐車場の奥を右手に入り、道なり突き当りに新宮(今宮)神社と呼ばれる社殿がひっそりとたたずんでいる。
この神社に関する由来が鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』に記されている。宝治元年(1247年)4月25日条「〜前略〜。今日、被奉勸請後鳥羽院御靈於鶴岡乾山麓、是爲奉宥彼怨靈、日來所被建立一宇社壇也」。これは、「承久の乱で鎌倉幕府に敗れ、隠岐へ流され彼の地で崩御した後鳥羽上皇の怨霊を鎮める為に社壇が建てられていたが、そこへ今日御霊を勧請した」という意味。後鳥羽上皇死後、祟りと恐れられた出来事が立て続けに起きたためである。
承久の乱で京都に攻め上った有力御家人の三浦義村が延応元年(1239年)12月に亡くなり、翌年1月には大将の一人だった北条時房が死去した。『平戸記』(=公家の日記)には共に頓死で「これは後鳥羽上皇の所為か?」と書かれている。そしてもう一人の大将、三代執権・北条泰時は高熱に苦しみ、仁治三年(1242年)年6月に亡くなった。先の『平戸記』では後鳥羽上皇の御霊験が現れたと記されている。また別の公家の日記『経光卿記抄』には、さながら平清盛の最期のようだったとある。
それから『吾妻鏡』建長四年(1252年)正月12日条では、後鳥羽の護持僧であった刑部僧正長厳(長賢とも)の霊が少女にとりつき「以前より後鳥羽の使いで関東に来ていた。執権北条時頼亭に住んでいたが、祈祷で追い払われた」と述べた。
このように北条氏は無念のうちに亡くなった後鳥羽上皇の怨霊に悩まされる事となり、御霊を鎮めようとした。そんな逸話と関係する神社が残るのも鎌倉の奥深さの一つである。浮田定則
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