鎌倉と源氏物語〈第23回〉 第六代将軍宗尊親王の『源氏物語』と更迭
「武士の都」として知られる鎌倉ですが、『源氏物語』と深い関係があることはあまり知られていません。文化薫る歴史を辿ります。
『とはずがたり』の作者・後深草院二条が鎌倉に下向した時の将軍第七代惟康親王(これやすしんのう)の父第六代将軍宗尊親王(むねたかしんのう)は、鎌倉の源氏物語の象徴の「尾州家河内本源氏物語(びしゅうけかわちぼんげんじものがたり)」を制作した方と思われます。第54帖「夢の浮橋」巻奥書に名を残す北条実時が小侍所別当として仕えていました。光源氏のように美しい方だったようです。
後嵯峨天皇の皇子・宗尊親王を鎌倉に迎えたのは第五代執権北条時頼です。両親から引き離され、鎌倉という遠い異国の地で独り生きるはめになった11歳の少年親王の悲嘆と絶望を癒すべく、時頼は親身になって親王に仕えました。時頼が生きていたら宗尊親王の更迭はなかったでしょう。
享年37才で時頼が亡くなった時、宗尊親王は22歳になっていました。時頼の嫡子的存在で第八代執権となる北条時宗は13才です。嫡子的存在というのは、時宗には兄時輔(ときすけ)がいるからです。時輔の母の身分が低いために、時宗が生まれた時から嫡子として扱われました。
宗尊親王も母君の身分が低いために天皇になれず、鎌倉に将軍として下向させられました。即位されたのが弟君の後深草天皇です。ですから宗尊親王は時輔に心を寄せ、時宗には辛く当たります。当然、時宗は宗尊親王に対して敵愾心をもって育ちます。そこに時頼の思いもかけない早世。時宗は第七代執権政村とともに宗尊親王を更迭したのでした。
織田百合子
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