鎌倉と源氏物語〈第27回〉 平禅門の乱平頼綱子息資宗と後深草院二条
「武士の都」として知られる鎌倉ですが、『源氏物語』と深い関係があることはあまり知られていません。文化薫る歴史を辿ります。
話は安達泰盛が滅ぼされた1285年の霜月騒動に遡ります。泰盛は松下禅尼の甥です。執権が北条時頼・時宗の時代のことでした。第九代執権貞時は時宗の子で、貞時の時代、泰盛は幕府で一番の御家人になっていました。それに対立したのが内管領の平頼綱です。
時宗の早世で執権になった時、貞時は13歳という若さでしたから頼綱を頼ります。頼綱はたくみに貞時を説得し、貞時の発令として泰盛を滅ぼしたのでした。それが霜月騒動です。頼綱の恐怖政治がそこから始まりました。が、成長した貞時は頼綱の専横の実態がわかってくると、幕府の忠臣だった泰盛を討ったことを後悔します。
1293年、貞時は22歳になっていました。その年の4月、鎌倉に大地震が起き、建長寺をはじめとする多数の神社仏閣が倒壊、たくさんの死者が出ます。余震が続く混乱の中の6月、貞時は軍を差し向けて頼綱を討ったのでした。
父に協力した次男の資宗も一緒に討たれました。資宗は『とはずがたり』の作者・二条と継歌をする仲になった人物です。鎌倉を離れる時には夜通し餞別の会をもうけるなど親しい仲でした。その3年後の乱。二条はそれを聞いてどう思ったでしょう。 織田百合子
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