鎌倉のとっておき 〈第45回〉 鎌倉武士のまちづくり
緑豊かな山々と青い海に囲まれた温暖な鎌倉の地。
まちなかは、鶴岡八幡宮から若宮大路、禅宗寺院の集まる北鎌倉、大仏のある長谷周辺などその表情も豊かだ。
平安期まで東国の一都市だった鎌倉は、源頼朝をはじめ北条氏など鎌倉武士の手により、中世を代表する大都市へと発展した。
12世紀後半、頼朝は大倉(現在の清泉小周辺)に幕府(御所)を構えた後、その近くに由比若宮を移して鶴岡八幡宮とし、まちの中心に据えた。当時の参道付近は、イネ科の植物が茂る湿地帯だった。そこに頼朝は妻政子の安産を願い段葛を築き、参道として京の朱雀大路を模したという若宮大路を整備した。これらは鎌倉の「新しいまちづくり」のシンボルとなった。
かたや北条氏は、朝夷奈切通や巨福呂坂など鎌倉内外をつなぐ交通路の整備や、海の玄関、和賀江嶋の築港を進めるなど都市基盤を整える一方、建長寺や円覚寺など数々の禅宗寺院を建立し「武家の都」の姿が形作られていった。
当時、武士は御所から山の手周辺に、庶民は和賀江嶋に通じる小町大路の南側(現在の大町周辺)にその多くが住んでいたという。『海道記』にも「東南の角一道は港に通じており商人が多く賑わっている」と記され、商業の中心地が大町から材木座周辺だったことが伺える。
緑地が市域の約4割を占めるなど、美しい自然と都市とが調和する古都鎌倉。鎌倉武士は、私たちに「人生100年時代」の舞台として魅力あふれる素敵なまちを残してくれたようだ。
石塚裕之
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