今や全国の観光地で目にする人力車。まだ浅草や京都にも存在しなかった時代、鎌倉に関東初となる観光人力車を始めた車夫がいる。その人の名は青木登さん(71)。いまだに現役を貫く人力車界のパイオニアだ。
6人兄弟の5人目として茨城県の農家に生まれた。幼い頃からスポーツ万能で、中学では砲丸投げの選手として地区大会で優勝した経験もある。
高度経済成長期真っ只中の1963年、中学卒業と同時に集団就職で戸塚区にあった大手タイヤメーカーに就職。「『金の卵』なんて言われてね。でも15歳で故郷を離れるのはとても不安でした」
10年後、流通業界に転身。ちょうどその頃、横浜駅西口の相鉄ジョイナスが開業するタイミングで、婦人服やハンドバッグ販売店の支店長として働いた。「髪は七三分けでスーツを着て今じゃ考えられないですね」と白い歯をこぼす。
優秀な成績を残すと褒賞として会社から海外旅行が贈られていたが、売り上げトップになった35歳の時、なぜか他店舗が表彰されたという。「会社に裏切られ、悔しくて涙がこぼれました」。権力闘争に巻き込まれ、理不尽な扱いを受けた。
人生最大の転機
そんなある日、たまたま手に取った週刊誌の記事に目を奪われた。「飛騨高山の観光人力車が載っていて”これだ”と閃いた。人に使われず自分の身一つで生きていこう」と決心し、脱サラした。
すぐに現地に足を運び、車夫の接客や人力車の操作方法などを実際に乗って学んだ。「私ならもっとお客様を喜ばせる自信があった。舞台は昔から観光地として魅力を感じていた鎌倉に決めていた」
旅行代理店から格安で譲ってもらった中古の人力車で、何度も走行練習を重ね、1984年元日に創業。しかし、当時物珍しかった人力車にはなかなか乗ってもらえず、昼は人力車、夜は喫茶店アルバイトの二重生活を余儀なくされた。「『あんな仕事続く訳ない』と心無い言葉も聞こえてきたけれど、ただ歯を喰いしばって目の前の仕事に全力を尽くしてきた」
生涯現役を貫く
創業から35年。今では市内を走る人力車の光景も当たり前になった。「街はにぎやかになり景色も変わったけれど、客引きをしないという私の営業方針は変わらない。鎌倉の品格を下げることなく、お客様に『また乗ってみたい』と思っていただけるように日々、態度で示してきた」と美学を貫く。
年間約4300Kmを走るという青木さん。これまでの走行距離は約15万500Km、地球約4周分にあたる。この歳になっても毎朝1時間半の筋力トレーニングを怠らず、全長220cm、幅125cmある車体を自身の体の一部のように巧みに操り、現在まで無事故無違反だという。今後の目標を聞くと「倒れるまで走り続けて、生涯現役でいたい」と笑顔をみせた。
鎌倉版のローカルニュース最新6件
|
|
|
|
|
|