鎌倉ゆかりの映画監督・小津安二郎(1903〜63)の名作『晩春』が公開されて今年で70年を迎える。主な舞台は49年ごろの鎌倉。当社の取材で御成町に住む八木宏美さん(66)の生家で撮影の一部が行われていたことが明らかになった。「小津調」と呼ばれる独自のスタイルを確立し、今なお世界中の映画ファンに愛されている同作。八木さん自身の人生も小津作品と不思議な縁で結ばれている。
戦後間もない1949年に公開された『晩春』は、小津が初めて女優・原節子(1920〜2015)を起用した作品として知られている。
この作品で小津は、ローアングルで人物を撮る独特な撮影方法や徹底した美の追及など、「小津調」と呼ばれるスタイルを確立。いずれも原とのタッグで、主人公の名前が同じ「紀子」であることにちなみ、『麦秋』(51年公開)、『東京物語』(53年公開)とともに「紀子三部作」とも呼ばれ今なお世界中で愛されている。
小津は生前、自身の作品について「劇的な起伏を描かないで人生を感じさせる。こういう演出を全面的にやってみた」と語っている。
ロケ地はチーズ専門店に
そんな不朽の名作が、鎌倉駅や鶴岡八幡宮などで撮影されたことは明らかだが、主人公の自宅がどこだったのかなど、ファンの間でも議論を呼んできた。
「原さん演じる紀子が帰宅するシーンで映る玄関。あれは私が生まれ育った家です」。こう語るのは、御成町に住む作家・翻訳家の八木宏美さん。八木さんの生家は、現在のスターバックスコーヒー鎌倉御成町店に隣接する場所にあたる。八木さんの両親が結婚した51年、元々は伯父が所有していた土地と家屋を譲り受けた。
52年生まれの八木さんは『晩春』の撮影を実際に目にしてはいないが、幼い頃に親戚から「ロケ地に選ばれて、家財道具を外に運び出すのが大変だった」ことや「撮影後に原節子がブロマイドにサインをしてくれた」ことなどを何度も聞かされたという。
八木さんが唯一覚えているのは、玄関の引き戸を開ける時に鳴る「チリンチリン」という鈴の音色。「『晩春』を観てこの音を聞くたびに、幼い頃の記憶がよみがえってくる」と懐かしむ。
漫画家・横山隆一に譲渡
八木さんの家は64年の東京五輪開催を前に、家に面していた道路を拡張するため、58年に市が代替地として用意した現在の自宅に引っ越すことになった。八木さんはその時、6歳だった。
道路工事で生家は3分の1ほどの大きさになることは決まっていたが、引っ越しの準備をしていた時、近所に住んでいた「フクちゃん」でおなじみの漫画家・横山隆一から「アトリエとして使いたい」との要望があり、譲り渡すことになった。
その後は、ギャラリーなどとして利用されたが、現在は横山の子孫がチーズ店を運営している。
小津の魅力、世界に発信
八木さん自身の人生も、小津作品と切っても切れない関係にある。幼い頃から、母からピアノの指導を受けていた八木さんは大学卒業後、音楽研究のためにイタリアへ移住した。
生活する中で現地の風土や人などに強く興味を持つようになり、ミラノ大学人文学部に進学。その後、翻訳や日本の官公庁などからの委託調査を行う会社を設立した。仕事の傍ら、トリノ大学で日本語講師をしていた時、講座に来た日本映画愛好家のフランコ・ピコッロさんと出会った。
特に小津がお気に入りだったというフランコさん。当時欧米では、小津が生前に残した手紙や雑誌、新聞などのインタビュー記事の研究書がなかったことから、2人で本を作ることに。八木さんは「生家がロケ地だったこともあって縁を感じた」と振り返る。
全ての小津作品を観て、松竹などから資料を集め、1年をかけて「小津安二郎 映画について」と題したイタリア語の本が完成。16年に出版されると、「映画の研究に貢献した」と国際映画学会から高い評価を得て17年に翻訳賞を受賞した。
八木さんは「音楽のためにイタリアに行ったはずが、30年後に小津の本を書くとは夢にも思わなかった。若い方にも小津作品を観てもらい、家族のあり方や思いやり、根底にある人の心などを感じてほしい」と話す。
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