鎌倉のとっておき 〈第71回〉 皇室ゆかりの鎌倉建造物及び史跡
鎌倉にある皇室ゆかりの建造物や史跡は明治32年造営後、関東大震災でほぼ全壊、その後、再建されることなく御成小学校に生まれ変わった御用邸などを除き、後醍醐天皇に関連したものが多い。
鎌倉時代、源氏の将軍が3代で途絶えた後、お飾りの将軍として摂関家の子弟、次いで皇族から親王が招かれた。しかし、幕府滅亡の際に行方不明の最後の将軍、守邦親王を除き、いずれも力を持つ前に京都に送還され、そこが終焉の地となったため、鎌倉には鎌倉時代の親王将軍の墓はない。
幕府が滅亡し、東光寺に幽閉された後、足利直義の命で殺された後醍醐天皇皇子護良親王。墓は鎌倉宮横の理智光寺跡の高台にあるが、この菩提を弔うため、同寺を管理していた東慶寺の住持となったのが、後醍醐天皇の皇女、即ち護良親王の妹、五世用堂尼だった。用堂尼の墓は東慶寺奥の階段上のやぐらの中にあり、開山の北条時宗夫人覚山尼の墓と並んで格高に弔われている。鎌倉では後醍醐天皇の皇子と皇女のこの2つの墓だけが宮内庁管轄となっている。
明治新政府が南朝復権を進める中、天皇勅命により鎌倉に建立した建造物では、護良親王を祭神とした鎌倉宮(東光寺跡地)と倒幕前に、元弘の変で処刑された後醍醐天皇の側近、日野俊基を祀る葛原岡神社(処刑地跡地)と2つある。墓同様に、いずれも後醍醐天皇に関係するものであることは興味深い。
横山雅樹
|
|
<PR>
|
|
|
|
|
|