鎌倉のとっておき 〈第93回〉 「和田塚」に眠るのは...
鎌倉幕府には、その代表的な役所として、軍事面で武士(御家人)を統率する「侍所」、各種の事務手続きを行う「政所」、主に相続や領地争いの裁判を行う「問注所」の3つが置かれていた。
このうち「侍所」は、1180年源頼朝が平家討伐で挙兵した年には既に鎌倉に置かれ、源氏軍の司令部としてその役割を果たしていた。
この「侍所」の初代別当(長官)となったのが、頼朝の信頼も厚かった和田義盛であった。「侍所」は、警察として傷害や窃盗などの刑事裁判も担っており、その長官だった義盛は、鎌倉期初期から幕府の中心的な武士であった。
頼朝亡き後、義盛は幕府運営を合議する宿老(13人)の中でもその力を発揮するとともに、1203年には、北条氏による比企一族(2代将軍源頼家の姻戚)の討伐に加勢し、3代将軍源実朝の擁立にも協力した。
しかし義盛は、1213年身内への処断をめぐり北条義時と対立、挙兵したが、親族である三浦氏の合力も得られず、由比ヶ浜でその最期を遂げたのである(和田合戦)。
義盛にはこんな伝説が残っている。鎌倉期の軍記物語『源平盛衰記』によれば、義盛は、鎌倉方の軍勢に敗れた木曽義仲に従っていた有名な女傑「巴御前」の助命を頼朝に願い、自ら妻として迎えたというのだ。
江ノ電和田塚駅近くにある「和田塚」。ここには、北条氏と覇権を争った和田一族が今も静かに眠っている。
石塚裕之
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