鎌倉のとっておき 〈第107回〉 鎌倉の中の院政期文化〜勝長寿院跡〜
金沢街道沿い大御堂橋の交差点を南へ入った大御堂ヶ谷に、かつて源頼朝が父義朝の供養のため建立した勝長寿院という大寺院があった。
勝長寿院建立の経緯は「吾妻鏡」に詳しく記されている。注目されるのは、堂内を彩る仏像や壁画を描く技術者を、京都や奈良から招いて制作したことだ。
当時の京都は院政期文化が花開いていた。今に伝わる蓮華王院の国宝、千体千手観音立像や三千院の国宝は、この時代に制作された。院政期文化の特徴は、末法思想・浄土思想の影響を受け、造寺造仏が盛んとなった点にある。
勝長寿院の本尊として安置する丈六の金色阿弥陀仏は、南都(奈良)仏師の成朝が制作した。成朝は平等院鳳凰堂の阿弥陀如来坐像(国宝)を制作した定朝を祖とする。この一派は奈良や京都で活躍し、院派・円派・慶派とわかれた。成朝は定朝につながる南都仏師の嫡流とされる。慶派から運慶や快慶が輩出した。
また堂内の壁画「浄土瑞相并二十五菩薩像」は、京都から招聘した藤原為久が描いた。このように頼朝は、勝長寿院に当時の最先端文化を集め建立を進めている。
源氏ゆかりの勝長寿院は室町時代に廃寺となった。今は跡地に建てられた石碑から、往時をしのぶほかない。しかし記録を辿ると、かつて大御堂ヶ谷一帯に、院政期文化を凝縮した大寺院が確かに存在していた。
浮田定則
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