鎌倉のとっておき 〈第110回〉 頼朝挙兵の陰には?(三善氏)
源頼朝亡き後、幕府の運営を合議して決めていた宿老13人の中に三善康信がいた。
貴族出身で朝廷の官僚だった康信は、頼朝の乳母の妹が自分の母だったことが縁で、頼朝が伊豆に配流された後も、京の都の様子を定期的に知らせていたという。
1180年4月、平清盛と対立し幽閉された後白河上皇の子、以仁王(もちひとおう)は、諸国の源氏に向けて平氏追討の令旨(りょうじ)を発し、自らも源頼政とともに挙兵するが、平氏に鎮圧されてしまった。康信は、源氏の嫡流である頼朝の身を案じ、この危機的状況をいち早く頼朝に伝えるとともに、奥州へ逃げるよう勧めたという。
その後、頼朝は同年8月に挙兵。「石橋山の戦い」(小田原市)では惨敗し、一旦は安房(千葉県)へと逃れたが、10月には、上総氏や千葉氏などの武士を味方に付けて鎌倉入りを果たした。
一方、康信は、1184年頼朝に請われて鎌倉に入り、訴訟・裁判を担当する「問注所」の執事(長官)となり、以降、幕府における裁判制度の整備に尽力した。また康信は、京の都や朝廷にも詳しかったことから、頼朝の側近(顧問役)として、主に朝廷対策の面から幕府運営を支えたのだという。
そして宿老としては、1221年の「承久の乱」の際、朝廷への積極的な攻撃を主張し、他の宿老、大江広元らと協力しながら幕府側を勝利へと導き、武家政権を固めていったのである。
石塚裕之
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