鎌倉のとっておき 〈第113回〉 源頼朝とは兄弟だった?(八田氏)
源頼朝亡き後、幕府の運営を合議して決めていた宿老13人の中に八田(はった)知家(ともいえ)がいた。
知家は、1156年朝廷内の権力争い「保元(ほうげん)の乱」において、頼朝の父、源義朝とともに後白河天皇側に味方して勝利に貢献した。
その後、1180年頼朝の挙兵に合流、下野国(しもつけのくに)(栃木県)の地頭(年貢の徴収等)に任ぜられるとともに、平氏滅亡の年には「葦屋浦(あしやうら)の戦い」(九州)に参戦し、武功を挙げたという。
この源平の合戦では、源氏側で大活躍した頼朝の弟、源義経が、頼朝に無断で朝廷から官位を受けてその怒りを買い、遂には亡きものとされたが、知家も九州に向かう際には、既に官位を授かっていたのだという。
これを聞いた頼朝は、「鎮西(ちんぜい)に下向(九州への平氏討伐)する途中に京で任官するなど、怠け馬が道草を食うようなものだ」と知家を罵倒したという。後に知家は、1189年奥州藤原氏の討伐(奥州合戦)で、「東海道大将軍」として軍勢をまとめて武功を挙げ、面目躍如を果たしている。
そして後年の知家は、宿老の一人として幕府運営を支え、1221年「承久の乱」においては、時の執権、北条義時とともに鎌倉の治安維持に務めたのだという。
知家には、「実は義朝の子(頼朝と兄弟)だったのではないか」との説がある。事の真偽は定かではないが、知家が義朝から実朝まで源氏4代のあり様を間近に見ていた武士であったことは間違いない。 石塚裕之
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