鎌倉のとっておき 〈第114回〉 頼朝の幼なじみ、東奔西走する!(中原氏)
源頼朝亡き後、幕府の運営を合議して決めていた宿老13人の中に中原親(ちか)能(よし)がいた。
親能は、明法道(みょうぼうどう)(法律の専門)の家に生まれた貴族で、幼い頃相模国(神奈川県)で過ごしたことから、頼朝とは幼なじみであった。後に公文書の管理等を行う公文所(くもんじょ)の別当(長官)となった大江広元の兄でもある。
1180年、頼朝の挙兵を聞き、京の都にいた親能も関東に向かい頼朝と合流した。
その後、頼朝の代官として源義経とともに上洛し、次には後白河法皇の使いとして頼朝に上洛を促すなど朝廷と鎌倉を結ぶ大役を果たしている。
そして、源平の戦いにおいては、頼朝の弟、源範頼(のりより)に従い九州へ出向き、平氏が滅亡した「壇ノ浦の戦い」では、軍事参謀として武功を挙げ、頼朝から感状(手柄を褒める書付(かきつけ))も下されている。
その後、親能は、京の都(六波羅)に在住してその警備に務めたが、ある時「親能が私腹を肥やして貢物を抑留している」との讒言(ざんげん)が頼朝に伝えられた。
親能は事の真偽について詰問されたが、一切弁明せず、朝廷に上奏する草案(文書案)を作る仕事に専念した。頼朝は、その草案を見て彼の無実を悟り、これを許したのだという。
片や親能の妻は、頼朝の次女、三幡の乳母であったことから、三幡が早くに他界(14歳)したことを受けて親能も出家したが、その後も宿老の一人として幕府運営を支えたのである。石塚裕之
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