鎌倉のとっておき 〈第118回〉 鎌倉武士の鑑(かがみ)、畠山重忠
源頼朝を支えた武士に畠山重忠がいた。重忠は、頼朝が平家打倒で挙兵した際には平家方だったが、頼朝が石橋山(小田原市)の戦いで敗れて安房へ逃れた後、巻き返して大軍を率いて重忠のいる武蔵に迫ると頼朝に恭順した。その後の合戦で、源氏軍の先陣を務めて戦うなど武功を挙げ、忠誠心を認められた重忠は、頼朝から次期将軍、源頼家の補佐を託されるまでになったという。
重忠には、こんなエピソードがある。鎌倉期の軍記物語『源平盛衰記』によれば、源義経の鵯越(ひよどりごえ)の逆落としで有名な一ノ谷の戦いの際、「大切な馬に怪我をさせてはいけない」と自分の馬を背負って鵯越の急な崖を下ったのだという。
また、幕府の歴史書『吾妻鏡』によれば、謀反の疑いをかけられ、潔白を証明するために起請文を書くよう求められた重忠は、「起請文は発言に疑いある者に書かせるもので、自分は心と言葉を違える者ではなく書く必要はない」と断ったという。これを聞いた頼朝はそれ以上の詮索はしなかったと記されている。
頼朝亡き後、1205年重忠は、執権の北条時政とその妻、牧の方の謀略により、二俣川(横浜市)にて数千騎の北条軍と僅(わず)か百数十騎で戦うことになるが、逃げることなく潔く戦い、武士の本懐を遂げる道を選んだのだという。こうして重忠は、実直で清廉潔白な鎌倉武士として、後世にその名を残したのである。
石塚裕之
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