鎌倉のとっておき 〈第179回〉 ここに鎌倉海濱ホテルありき
ドイツ医師ベルツや長与専斉は、「鎌倉の海や風土は保養や治療に最適」と唱え、明治20年に日本初のサナトリウム鎌倉海濱院が誕生した。鎌倉の海水浴・別荘文化の礎となった。海水浴は当時、今のレジャーとは異なり潮湯治と言われ治療の場であった。ほどなく海濱院は経営に行き詰まり、鎌倉海濱ホテルとして再出発する。湘南唯一の洋式ホテルで、客は主に外国人であった。
明治39年、鹿鳴館やニコライ堂を設計した建築家ジョサイア・コンドルにより総二階建てハーフティンバー様式、付近の松林と美しく調和した品格あるリゾートホテルへと姿を変えてゆく。時代と共に海浜保養が浸透し個人の別荘が増える中、海濱ホテルや長谷の三橋旅館など宿泊施設も不可欠な存在となる。
その後ホテルは経営者が度々変わり、財界人や高級士官といった日本人客も増え、夜はダンスパーティーが行われ湘南随一の社交場となる。鎌倉は「海の銀座」と称され海浜保養都市として発展を遂げ、ホテルはそれを象徴する存在であった。ロシアから亡命したバレリーナE・パブロバやヒットラーが滞在、また夏目漱石の小説に登場したり、高浜虚子が句会を開いたりなど文学の舞台にもなった。
昭和20年、米兵のストーブを倒した失火でその幕は閉じる。この高級ホテルは地元の人々にとって最後まで近寄りがたい場所であった。もし今もこのクラシカルな建物が残っていたら湘南の帝国ホテルと呼ばれたに違いない。
井上靖章
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