玉縄はかつてユリ球根の産地だった―。地元でもほとんど知られていない同地区におけるユリ球根の栽培と輸出の歴史について、岡本在住の入江麻理子さんらが調査を進めている。9月8日(火)から、初の資料展を開催。今後の目標は「玉縄を再びユリの里にすること」だ。
「以前から自宅の庭に植えてもいないユリが毎年咲き、不思議に思っていた」という入江さん。昨秋、地元で「ユリ御殿」と呼ばれる建物が、明治・大正期にユリ球根の輸出で成功した角田家が建てたものという話を耳にしたという。
「球根はどこに、どのような用途で輸出されていたのか興味が沸いた」という入江さんは、さっそく地域での聞き取りや資料の収集を始めた。
海外に球根輸出
入江さんの調査によれば、玉縄村でテッポウユリの栽培が始まったのは1890(明治23)年頃とみられる。その中心を担ったのが地区の豪農だった角田助太郎だ。
日本では野山に咲いているユリだが、欧米では風土に合わず、自生しているものは少ないという。一方で、聖母マリアの象徴とされるなどキリスト教の宗教行事等での需要が高く、明治・大正期の横浜港では、ユリ球根はシルク、茶に次ぐ輸出品として最盛期には4千万箱が輸出されていた。種類にもよるが、球根1個1ポンド程度(現在の価値で約8万円)で取引されていた記録も残っている。
角田は、元々育てていたシンプルなテッポウユリだけでなく、一度にたくさんの花をつける黒軸テッポウユリの栽培にも乗り出す。地域の農家を取りまとめ、指導や仲買も実施。大正初期には横浜の貿易会社アイザック・バンティング社の副社長として、球根の輸出も行ったという。
第一次世界大戦によりいったんユリの輸出は途絶え、価格も暴落したが、角田は4千箱分の球根を捨てずに持ちこたえた。その結果、大戦終結後には以前の数十倍の価格で売ることに成功したという。
だが、1923年の関東大震災で横浜港が壊滅。輸出が止まり事業は頓挫。角田も病に倒れ、翌年亡くなったという。
図録など約30点展示
入江さんがこれまでの調査で収集した資料を展示する「海を渡った鎌倉のユリ〜明治・大正期のユリ球根の栽培と輸出〜」が9月8日(火)から22日(火)まで、玉縄図書館で開催される(14日(月)休館)。期間中はカタログや図書、写真など約30点を展示する予定。
「玉縄を再びユリの里にしたい、という思いが沸いた」という入江さんは、角田家の現当主らの協力を得て、ユリを育てる活動にも着手した。来年の開花の時季に向けて資料展なども順次開催し、周知活動も進めていくという。さらに、入江さんが代表を務めるボランティア団体「コソガイ」が運営するウェブサイト内の鎌倉野菜物語(https://kamakurayasai.com/)でも連載記事を掲載している。
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