鎌倉のとっておき 〈第106回〉 鎌倉幕府の知恵袋(大江氏)
源頼朝亡き後、幕府の運営を合議して決めていた宿老13人の中に大江広元がいた。
貴族出身の広元は朝廷の官僚だったが、頼朝の招きで鎌倉に入った後は、公文書の管理や荘園の訴訟等を扱った「公文所(くもんじょ)」(以後「政所(まんどころ)」に改組)の別当(長官)となり、幕府の行政官僚として力を発揮した。
広元が提案したとされる「守護」(警察業務)と「地頭」(年貢の徴収等)の全国への配置は、幕府の統治力を大いに高め、頼朝の信任を得たという。また、源義経が兄の頼朝に対し、自らの身の潔白を訴えた『腰越状』は、広元宛てに出されるなど、幕府での広元の地位が高かったことも伺える。
一方、宿老としては、北条氏と連携して幕府を支え、特に朝廷と幕府が争った「承久の乱」の際には、京都(朝廷)への積極的な攻撃を主張し、朝廷との戦いに慎重だった御家人たちを北条政子とともに鼓舞して、幕府側を勝利に導いた。広元について、幕府の歴史書『吾妻鏡』には、成人した後は落涙(らくるい)したことがない旨の記載もあり、その冷静さは際立っていたようだ。
実は、広元は、戦国時代、西国を治めた毛利元就や、関ヶ原の戦いで西軍の総大将となった毛利輝元の祖先に当たるのだという。広元の知見や権謀術数の数々は、西国の覇者、毛利氏へと受け継がれていったのかもしれない。
現在、西御門の頼朝の墓近くには、広元の墓と伝わる供養塔が残っている。 石塚裕之
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