鎌倉のとっておき 〈第165回〉 鎌倉と中先代(なかせんだい)の乱
元弘3年(1333)5月22日、鎌倉幕府は新田義貞率いる反乱軍によって滅亡した。この時、最後の得宗(北条家嫡流の当主)北条高時の次男時行は、諏訪盛高という御内人(北条家嫡流に仕える御家人)に護られ、鎌倉を脱出。信濃国(現在の長野県)に落ち延びた。
世の中が後醍醐天皇の政治(建武の新政)に移り変わった建武2年(1335)、各地で起きていた北条与党の乱の中で、最大級の反乱がおこった。諏訪頼重に擁立された北条時行による「中先代の乱」である。6月下旬に信濃国で挙兵した彼らは、各地で官軍を破り、7月24日に鎌倉へ入った。ここからおよそ1カ月、北条氏を頂点とした政権が鎌倉に存在した。このため足利尊氏の時代に、先代(北条高時の政権)と当御代(足利尊氏の政権)の間の政権として「中先代」の呼び方が生まれた。
北条時行による政権は、鎌倉奪回を目指す足利尊氏に破れ、8月19日、かつて源頼朝が建立した大御堂(勝長寿院)において、反乱の中心人物である諏訪頼重ら43名が自害。戦いは幕をおろした。しかしこの時、再び鎌倉を脱出した時行は、この後、二度も鎌倉を奪回する。
鎌倉国宝館には、明王院蔵の北条時行奉行人等連署安堵状という古文書が寄託されている。この文書は建武ではなく、鎌倉時代末期の正慶という元号が書かれている。彼らが鎌倉にいたのはわずかな日にちであった。しかし幕府再興を目指した足跡は、確かに鎌倉に残っている。 浮田定則
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