父が大工から農家に
ナスにトマト、トウモロコシ、さらにはイチゴ、サトウキビ…。戦況が悪化していく1943(昭和18)から4年間、両親は畑で汗を流していた。「米を好きなだけとはいかなかったが、農家だった親のおかげで食べるものには困らなかった」。鎌倉市立御成国民学校・初等科に通っていた沖田俊昭さん(90・十二所)は、当時の記憶を呼び覚ます。
雪ノ下で生まれ、11歳だった1945(昭和20)年8月15日の玉音放送を聞いた。太平洋戦争末期になると警戒警報のサイレンが毎日のように鳴り、授業中でも家路を急いだ。「校庭には敵の攻撃から逃れるために塹壕(ざんごう)が掘られ、外で遊べなくなっていた」という。
ただ鎌倉では、戦火に追われて死線をさまようことはなかった。育ち盛りの少年の腹を満たすものも身近にあった。しかし時が経つにつれ思うことがある。「本当に大変な時代だったんだな。自分のやりたいことを選べない時代だったのだから」と。
関東大震災機に鎌倉へ
大工だった父・音次さんと、その仕事に魅かれて夫婦となった母・保世さんは、かつて大阪に暮らしていた。1923(大正12)年に関東大震災が起きると、甚大な被害に遭った鎌倉の復興支援を頼まれやって来た。
それから20年後、戦争が激しさを増す中で、家は建てるのではなく壊されていく。大工仕事がなくなった沖田家は、やむなく農家へと転向したのだった。沖田さんは、「父は大工の仕事に就くのが夢だった。母はもともと農作業が嫌いだったのに、しっかり父を手伝っていた。両親には感謝しかない」。父は終戦から2年ほどして大工に復帰し、再び家づくりに没頭していった。
沖田さんは大学卒業後、道路建設の会社に長年身を置き、仕事に旅行にと人が思い思いに往来する高速道路を手がけた。終戦から79年を迎えた今、伝えたいことがある。「選べることがいっぱいある時代が、どれだけ幸せなことか。だからと言って好き勝手なことばかりするのではなく、世のため、人のためにも尽くしてほしい」
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