広島や長崎で原爆を受けた生存者による組織「日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)」が、今年のノーベル平和賞を受賞した。4歳の時に広島で原爆を体験し、現在は日本被団協の地方組織である「神奈川県原爆被災者の会」副会長、「鎌倉市被爆者の会(いちょうの会)」会長を務める網崎万喜男さん(83・浄明寺在住)は、「本当によかった。言葉では言い尽くせない喜び」と語る。
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ノルウェー・ノーベル委員会は、日本被団協への授与理由を、「核兵器のない世界を実現するための努力、核兵器が二度と使用されてはならないことを証言によって示してきた」とした。
1945年8月6日、網崎さんは被爆地の広島市中心部から5Kmほど離れた自宅近くの防空壕にいた。世界で初めて原子爆弾が投下された際のことを、当時4歳ながらこう記憶している。
「ピカッと光って、きのこ雲が広がっていった。原爆が落ちて一瞬にして街は黒焦げになってしまった」。いつもは住居などの建物で遮られる景色が、すべて見渡せるようになってしまった。原爆は、一瞬にして街と命を奪い去り、広島では約14万人が亡くなったとされる。女学校に通っていた網崎さんのいとこ2人も、犠牲となった。「遺骨が見つからなかった。亡くなったのではなく、消えたのです」
原爆投下の地では、終戦後も人々を苦しめた。網崎さんのきょうだいには、姉と妹2人の女性3人がいたため、両親は原爆について口を閉ざした。被爆者への差別から、娘たちの結婚を心配したためだ。産まれてくる子どもの体にもし影響があったら…。「原爆を体験した一世だけでなく、二世も苦しんだ」(網崎さん)
核廃絶への訴え「体が動く限り」
広島や長崎のような体験をすることが二度とないように-。定年退職を機に網崎さんは20年ほど前から、神奈川県と鎌倉市の被爆者団体を通じて日本被団協の活動に関わるようになった。
2017年に核兵器禁止条約が採択されるまでは、核廃絶に向けた署名を集めて米国の国連本部へ送った。現在も、日本政府に対し核兵器禁止条約の批准を求める署名活動を続けている。会長を務める鎌倉の団体では、小学校での出前授業、鎌倉駅地下道ギャラリーの展示などを通して核の恐ろしさを後世に伝え、平和の尊さを訴える。
草の根活動を続けてきた網崎さんにとって、今回の受賞は「希望の光」と言い、「核兵器を作ったのは人間であり、なくすことができるのも人間です。核兵器廃絶に向けて、体が動く限り訴えていきたい」。
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