1512年に伊勢宗瑞(そうずい)(北条早雲)によって築かれた玉縄城。小田原城の支城として三浦半島ににらみを利かせたこの城の主、玉縄北条3代(綱成、氏繁、氏勝)の供養塔が初代綱成の命日である今月6日、龍宝寺(市内植木129)の裏山から同寺本堂横に移され、石塔も新たに建立された。同寺は玉縄北条氏の菩提寺として栄えた歴史を持つ。
そもそもこの供養塔は、1625年ごろに当時の良順住職が同寺境内(現在、栄光学園の敷地内)に建てたもの。その後、戦後の造成工事の影響で、同寺裏山の尾根に移設されていた。
今年は、玉縄城築城500年という節目であり梅田良光住職(39)は、「皆様が、お参りしやすいところに」と今回の移設となった。
三代目氏勝は千葉で大名に
玉縄城は、早雲の関東進出に重要な役割を担っていた。三浦半島を支配下においていた三浦道寸との戦いでは、その拠点となっている。初代城主は早雲の次男、氏時で2代目が為昌(ためまさ)。3代目が玉縄城に根を下ろした玉縄北条の綱成で、氏繁、氏勝と続く。
玉縄歴史の会の関根肇さん(75)によると、豊臣秀吉との戦(小田原の陣)において玉縄では、氏勝が豊臣勢の徳川家康と対峙。後に無血開城したという。江戸時代に入り、氏勝は千葉県佐倉市にある岩富城の城主として一万石が与えられ、大名となっている。
歴史の会によると、玉縄地区は1950年代から60年代にかけて、清泉女学院や栄光学園の誘致をはじめ大規模な造成工事が行われたため、詳細な調査は行われていないという。
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