8月15日に1945年から73回目の終戦記念日を迎える。茅ヶ崎市も空爆に見舞われたが、本土戦で大きな戦禍にさらされる危機があったことを知る人は多くない。茅ヶ崎を舞台にした米軍の日本本土上陸および首都攻略計画「コロネット作戦」について、茅ヶ崎市市史編纂室のメンバーで国学院大学の講師なども務める栗田尚弥さんに話を聞いた。
「コロネット」とは馬のひづめ。千葉県・九十九里と神奈川県・湘南の2カ所を起点に、Uの字型に首都大本営を攻め落とす挟撃作戦のコードネームだ。予定日時は1946年3月1日だった。
戦後に生まれ、太平洋戦争史の研究者として知られる栗田さん。茅ヶ崎が選ばれた理由に、遠浅で上陸しやすく、海岸沿いに主戦力となる日本軍の拠点がないことなどをあげる。また「首都へ向かうルートに大規模河川が少なく陸軍の進行がしやすいこと、反対に後背の相模川は自然の防壁になったことも大きかったのでは」と分析する。
首謀はマッカーサー率いる連合国軍陸軍。茅ヶ崎に「一軍だけで約30万人の兵力」を投入する史上最大規模の上陸作戦として計画され、数々の新兵器や、サリンなどの化学兵器の使用予定もあったという。
作戦決行に向けた“準備”で、湘南は度々艦砲射撃などに晒された。45年7月の平塚空襲では茅ヶ崎も南部を中心に被害を受け、8月10日には十間坂で機銃射撃があったことなどが記録に残る。
8月15日に玉音放送が流された後も、茅ヶ崎の人たちの心は休まらなかった。8月28日、200隻を超える大艦隊が相模湾に現れたのだ。「朝起きたら水平線が軍艦で真っ黒になっていた」と当時を振り返る人もいる。
幸いにして、9月2日に降伏文書が署名され、正式に停戦し、計画は白紙に終わった。
戦後、南湖に米軍キャンプ茅ヶ崎、えぼし岩には米軍演習場茅ヶ崎ビーチが置かれた。戦後も「CHIGASAKI」は米軍にとって重要地点だった。日本が他国に占領された場合に備えた、米軍の「日本首都奪還計画」でも、上陸地点は茅ヶ崎。「実際に茅ヶ崎で上陸訓練がなされていた資料が残る」(栗田さん)
現在市内に当時の”戦跡・戦痕”はほとんど残っていない。「すべての出来事はつながって今がある。多くの人に知ってほしい、知るべき事実」と栗田さんは力を込めた。
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