ハワイに魅せられ、茅ヶ崎でサーフィンの普及に情熱を注ぐ傍ら、海を中心とした町づくりに40年以上にわたり心を燃やしてきた藤沢譲二さん(71)。老舗サーフショップのオーナー、第1期のプロサーファーとして日本のサーフシーンの一線で活躍しながら、茅ヶ崎の町を、そして海を見つめ続けてきた。
母親の姉が住んでいたのがきっかけで、「海外勉強」としてハワイに渡ったのは15歳のとき。そこで、その地で育まれた伝統のスポーツ「サーフィン」と出会う。その感動に震え、「これしかない」と心に決めた。
15歳で渡ったハワイ
後に出会った、サーフィン界の重鎮であるランディ・ラリックさんからは多大な影響を受けた。ラリックさんのサーフショップに通い詰め、サーフボードのシェイプ(削る工程)、調整といったサーフィン技術について薫陶を受ける。1960年代後半にかけてサーフィン界が米国、ハワイの若い世代で盛り上がりを見せる中、それを支える関連産業の中枢に立ち会えたことを「財産」と表現する。
ハワイには10年間、25歳まで滞在した。現地に赴けば今でも仲間たちが「お帰り」と迎えてくれる。「第2の故郷だね」
帰国後は茅ヶ崎へ
帰国してすぐ、次なる拠点として茅ヶ崎を選んだ。先輩のサーフショップもあり、仲間も多かったことが主な理由。地元の人が温かく、誰でも受け入れる風土も気に入った。サーフィン文化を広めたい一心で、サーフショップを経営。客たちに自身の経験を話すと、噂が広がり、サーファーたちが集まるようになっていった。
ショップでは若手サーファーの育成を目的にスクールを始め、娘が通学していた東海岸小学校の総合学習の授業でもボランティアとして指導するように。この活動は娘が卒業した後も20年以上続けられた。教え子の中にはプロサーファーとして活躍する人もいる。
頭の中はサーフィンだけでなく、茅ヶ崎の海全体のことを常に考えてきた。20年ほど前は海岸に駐車場、トイレ、シャワーが整っていなかった時代。行政に整備を促そうと、仲間と共に何度となく直談判。時間はかかったが、徐々に利用環境は整ってきた。
そうした海を取り巻く活動を続けるうちに、次第に茅ヶ崎の愛着の高まり、そして町づくりへと傾いていく。
姉妹都市締結をサポート
「40年(当時)住み、サーフショップを経営させてもらっている茅ヶ崎に恩返しがしたかった」
そこで茅ヶ崎とハワイの交流を深めようと、日本サーフィン連盟茅ヶ崎支部とハワイのアマチュアサーフィン協会とのフレンドシップ協定を締結する計画に携わる。締結にあたっては自身にとって大切なハワイに誠意を示すためにも、ラリックさんをはじめとする現地の仲間に根回しをするため、妻の加代子さんに2度の渡航を懇願。加代子さんも思いに賛同した。
フレンドシップ協定の締結は3度目の来訪で実現。後に茅ヶ崎とホノルル市が姉妹都市を結ぶ際の大きな後押しとなった。現在、市長室に飾ってあるラリックさんが手掛けたサーフボードは、両市が良好な関係を築いている証だ。
加えて5月から始まったふるさと納税返礼品のサーフボードのシェイプを担当。「うれしい」と笑顔を見せ、「個々の経験、特徴に合わせてオリジナルのシェイプをしたい」と意気込んでいる。
「茅ヶ崎の海見てほしい」
茅ヶ崎の現状を「今やサーファーだけでなく、多くの人たちにとって憧れの地になっている」とし、「だからこそ、海を見てほしい。向こうには富士山を望み、自然が織りなす四季の風景があり、水の色も変化する。この海を守り、憧れる人たちの受け皿になっていかないとね」
願ってやまないのが、海と町が一体となった温かいコミュニティのさらなる醸成。何もなかった15歳の自分を受け入れてくれた、愛すべきホノルルのような町に。海を中心に茅ヶ崎を長らく見続けてきた、日本を代表するレジェンドサーファーの秘めたる思いだ。
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