関東大震災が発生して、今日で100年となる。タウンニュース茅ヶ崎編集室と寒川編集室では合同で防災特別号を発行する。未曾有の大災害は、私たちの地域にどのような被害をもたらしたのか-。改めて振り返り、やがて来る大地震への備えについて考えたい。
鉄道橋が倒壊
1923(大正12)年9月1日午前11時58分、神奈川県西部の松田町付近を震源とする大地震が発生し、震源に近い茅ヶ崎・寒川エリアも震度7の強烈な揺れに襲われた。『神奈川県震災誌』には左上の表のような被害の記録が残る。死者の多くは倒壊した建物の下敷きになった。
一方で東京や横浜などの大都市圏で壊滅的な被害をもたらした火災については、ほとんど発生しなかった。これは当時、地域の人のほとんどが農業や漁業を営んでおり、朝早くから働いて午前11時ごろに昼食を摂り、正午前後は昼寝に充てる人が多かったこと、かまど自体が外にある家が多かったことなども影響していると考えられる。
とはいえ、甚大な影響があった。茅ヶ崎市内では「道路に亀裂が入り自動車の通行は困難」(今宿と中島の間)などの記録が残る。また寒川町では、寒川神社で神社本殿や拝殿などが傾いたほか、一ノ鳥居などが倒壊。本殿は土台から「一尺」(約30cm)後方に滑ったという。
茅ケ崎駅の構内では、上下線それぞれに停車していた貨物列車2編成の機関車・貨物列車が脱線・転覆した。北口駅舎は倒壊、出来上がったばかりだった南口駅舎も半壊した。馬入川にかかる橋梁では橋脚54基のうち44基が倒壊するなどして崩落し、交通の大動脈は数カ月にわたって大きな支障を生じた。
津波被害なかった?
東日本大震災では津波が沿岸地域に大きな被害をもたらし、人々に衝撃を与えた。関東大震災の際、茅ヶ崎に津波による大きな被害が出たという記録はないものの「現在の国道134号付近まで来た」や「(平塚側から)津波が相模川を遡上する様子を見た」という証言が残されている。
地形も変化
茅ヶ崎市の柳島では相模川の河口部が隆起して港が消失。震災当時は現在の場所より南側に迂回していた小出川(千の川と合流して松尾川と称していた)の流れる先がなくなり、現在の浜見平団地周辺に水が溢れたという(のちに県による工事が行われ相模川への河道が確保された)。一方で耕作に適さなかった湿地が隆起したことで農耕地となった。
相模川が過去に何度も流路を変えた茅ヶ崎市中島、今宿、柳島などでは液状化現象が発生したとみられる。その最も有名な遺構が下町屋の旧相模川橋脚。震災で水田の中から突如出現した7本の木柱は、源頼朝の重臣・稲毛重成が造営した橋の橋脚と推定された。
飛び交うデマ
震災直後はさまざまな噂やデマが飛び交った。
津波襲来の噂で、海岸から離れた地域でも多くの人が高台へと避難。東京などと同様に「朝鮮人が暴動を起こす」「井戸に毒を入れた」といった話も流布した。
多くの地域で青年団や消防団が中心となった自警団が組織され、人々は竹槍や日本刀で武装。「朝鮮人が逃げ込んだ」と噂があった場所では山狩りも行われたという。
現在の茅ヶ崎市十間坂付近では、朝鮮人労務者が拘束され、事態収拾のために駆けつけた日本人の監督が誤って殺害されたという証言も残る。
一方、寒川村では「朝鮮人を追い払うように」と申し出る住民を警察官や村長がなだめ、また朝鮮人を倒壊した家屋の片付けに従事させるなどして、不安を鎮めた。
先人のメッセージ
未曽有の災害からの復興の記録は今も、神社や寺の一角に記念碑などのかたちで残されている(中面に関連記事)。
そのなかの一つ、茅ヶ崎市小和田の熊野神社境内にある復興碑には以下のような言葉が刻まれている。「固ヨリ不測ノ天変地妖ハ人力ノ如何トモスルベキ所ニ非ズト雖モ、災禍ノ範囲ヲ縮狭シ、救済ノ道ヲシテ遺算ナカラシムルハ、人事ノ敢テ能クスル所ナリ」。人の力で災害を防ぐことはできなくても、被害を小さくすることはできる-。今こそそのメッセージを胸に刻みたい。
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