1945年7月16日夜から17日未明にかけ、海軍火薬廠など軍需工場の集積地だった平塚は米軍機の空襲にさらされた。平塚の成り立ちを語る上で、戦争は切り離せない。戦中、戦後を生きた人の記憶を取材した。
稲本薬局(平塚)の今井信子さん(88)は16歳のときに平塚空襲を体験した。
東海道に面した呉服屋「稲元屋」の娘で、自宅の敷地内には店舗のほかに従業員4、5人の住居もあり、にぎやかに暮らしていた。
平塚高等女学校(現・平塚江南高)に通い、学徒動員では海軍火薬廠の技術研究所の中にあった相模海軍工廠平塚工場で防毒マスクの製造にあたった。「もぐさと絹を混ぜて紙漉きのようにして、毒を濾過する部分を作った」と振り返る。
終戦間近の数カ月は、女学校の教諭に助言され、研究所の将校の手伝いという名目で、実験方法を学んだり、工場内の図書館に足を運んだりと後学に役立てた。「今思えば、遊んでもらっていたようなもの。水質調査の仕方を教わった」。
今井さんはその後、大森の薬学専門学校に進学する。「自分で言うのもなんだけど、フラスコの振り方は上手でしたよ。東大卒の日本を代表する優秀な方たちに教わりましたから」と茶目っ気たっぷりに笑う。
そんな日々も、16日夜で途絶える。「寝ようとしたら窓ガラスが明るくなった。きょうは平塚が空襲の日なんだなと思った」と今井さん。これまでに、東京大空襲で赤く染まった空や、ドームのようにもやがかる横浜大空襲の煙を平塚から見ていた。花水川河口付近に落ちた照明弾が、昼間のように辺りを照らし、母と共に、庭に避難したという。
当時は視界を遮る民家もほとんどなく、庭からは平塚工科高校の教室が次々に燃えていく様子が見えた。
隣の民家に焼夷弾が落とされ、あっという間に自宅に燃え移った。これまで練習してきた消火訓練も、燃え盛る炎の前では役に立たない。「怖かったけど、とにかく必死だった。熱くて熱くて、しょうがなかった」。唯一残った蔵の中で1カ月ほど生活した。
薬学専門学校の入寮日に終戦を迎えた。受験時は家が建ち並んでいた東京の街並みも焼け野原に変わっていた。戦局が厳しくなった44年以降に兵隊に行った従業員は一人も帰ってこなかった。今井さんは「戦争はやっぱりしたくない。とてもみじめ。最近また飛行機の音を聞くと、あの頃を思い出すの」と、そっと目をつむった。
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